ヲシテ文献
11、『本日本学』 事始め-1
御陵(みささぎ)の整備
江戸の松下見林(1637〜1703)は、『前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)』を表して、天皇御陵の整備を訴えた。草に埋もれ、雨に流され、石棺の剥き出しになっている御陵も多かったからだ。初の御陵の整備を訴える『前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)』を見てみよう。これは、元禄11年(1697)の出版だった。
現代、どの御陵に参拝しても、かなり立派に整備がなされていて、安心する。
でも、それは、松下見林の当時から比べると、想像も出来ないほどの変化であったのだ。
さらに、御陵の整備は簡単に進んだわけではない。松下見林から100年ほど経ても、御陵の荒廃のさまは、
変わらなかった。
このため、蒲生君平(1768〜1813)は、『山陵志』 を表す事になった。『山陵志』の出版は、文政5年(1822)の
ことで、筆者の蒲生君平の没後のことだった。
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中略
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中略
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『山陵志』
蒲生君平
『前王廟陵記』
松下見林
瓊瓊杵尊(10代)、火火出見尊(11代)、不葺合尊(12代)の三御陵について、その場所の調査がなされた。
松下見林(1637〜1703)は、『前王廟陵記(ぜんおうびょうりょうき)』にて、記紀を根拠として、薩摩、日向、日向あるいは大隅にありとした。
蒲生君平(1768〜1813)は『山陵志』にて、三山陵は日向にありとした。
ここに! この現代に至っての事である。『古事記』『日本書紀』の原典たるヲシテ文献の出現により、この三山陵の現在地考証に再考すべき余地のあることが判明する。
三山陵について、記紀とヲシテ文献との比較表を掲げる
『ホツマツタヱ』 | 『日本書紀』 | 『古事記』 | |
10代アマカミ ニニキネ | ソヲ タカチホ(霧島山)(26−41) | 日向 可愛之山陵 | 記述なし |
11代アマカミ ホオテミ |
ケヰ(福井県 気比神宮)(27−22) (崩御の所・滋賀県大津 シノミヤ<天孫神社>)(27−23) |
日向 高屋山上陵 (↑一致せず) | 高千穂山之西 |
12代アマカミ ウガヤ フキアハセズ |
アヒラ(吾平御陵)(27−93) (崩御の所・ミヤザキヤマ<未詳>)(27−92) |
吾平山上陵 記載なし | 記述なし |
本当に大きな違いがあることを、あらためて認識させられせしまう。
で、私たちが求めたい所は何なのだろうか。それは、真実なのではないのだろうか。 ここに向かうために、もう少し足元を固めておこう。それには、『定本ホツマ』を見るのが手早い。
12代アマカミ
↓ ウガヤ フキアハセズ
11代アマカミ
↓ ホオテミ
10代アマカミ
↓ ニニキネ
記紀との対比比較をしてみると、この違いが明瞭になる。
で、どうなのだろうか。本当はどうなのか?
『ホツマツタヱ』が『古事記』『日本書紀』の原書である事が解かっているのであるから、
どちらが真実を伝えているか。 もう、明らかな事でしょう。
そうすると、松下見林や、蒲生君平が、荒涼としていた御陵にたいして流した涙は、今の
私たちにも再び流れるのではないのでしょうか。 11代アマカミのホオテミさんの真実の
御陵は忘れ去られているままであるし、10代アマカミのニニキネさんの御陵も間違えられ
てしまっているままなのですから。
つまり、現在、ハード面での整備のほかに、ソフト面での整備がどうしても必要であるわけです。
平成19年(2007) 9月17日 更新版、(C). 池田 満
歴史を考える根拠が、『古事記』『日本書紀』から『ホツマツタヱ』に変わるということは、
上に見てきたような、変革をもたらす事になる。
さて、では10代アマカミのニニキネさん以前のことを考えてみよう。
9代アマカミはオシホミミさん、8代アマカミはアマテルカミ、7代アマカミはイサナギ・イサナミさんである。
御陵の記載のある7〜9代を表にして掲げよう。
『ホツマツタヱ』 | 『日本書紀』 | 『古事記』 | |
7代アマカミ イサナギ・イサナミ |
イサナギ アワチノミヤ(淡路島 伊弉諾神社)(6−33) (お祭り所・滋賀県 多賀大社)(6−34) イサナミ アリマ(三重県熊野市 花の窟神社)(5−13) |
淡路の国(淡路島 伊弉諾神社) 有馬(三重県熊野市) |
近江の多賀(滋賀県 多賀大社) 比婆の山(出雲と伯伎の境) |
8代アマカミ アマテル |
マナヰ(京都府 比治山)(28−49) お祭り所 ウヂ(伊勢神宮 内宮)(36−34) |
記載なし 渡遇宮(伊勢神宮 内宮) |
記載なし 明瞭な記載はない が、名称あり 伊勢大神の宮(伊勢神宮 内宮) |
9代アマカミ オシホミミ |
ハコネ(箱根神社) (24−97) | 記載なし | 記載なし |
上記の表にまとめたように、『古事記』『日本書紀』では、とても大きな問題を含んでいるとせざるを得ない。
ここをもって、蒲生君平や松下見林よりも大粒の涙が溢れ流れてくるのを、私には止めることが出来ないのだ。
特に、9代アマカミのオシホミミさんにいたっては、漢字文献に、その伝承の貧弱な事、なお悲涙の横溢をとめることができません。
8代アマカミのアマテルカミの崩御(かみあがり)と、お祭りについては『縄文人のこころを旅する』にて詳細に解説していますので、
是非とも、ご一読を戴きたいと願ってやみません。
どの文献をもって日本の歴史を考えてゆく基礎となしゆくべきか。『古事記』『日本書紀』では、もはや時代遅れと言うべき
である事に、ご理解が得られつつあるのではないか、と思っております。
人間の歴史を考える場合、
お墓、または、
御陵というものの捉え方
の重要度が増してくる。
11、「本日本学」その1
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