◎11月1日 諸聖人 マタイ5章1~12節a イエスの姿を表すあなたがたは幸い
今週は本来ならば年間第31主日ですが、諸聖人の祭日と重なるため、そちらが優先してお祝いされます。2020年以来6年ぶりのことになります。ちょうどコロナの年だったので公開ミサもなかったかもしれませんし、不安な思いのうちに過ごされていた方々も多かったことでしょう。そんな時代のわたしたちに、イエスの「あなたがたは幸い」という言葉はどのように響いたのでしょうか。
イエスの宣教の初めは「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉で表されています。しかし、具体的な教えの初めはマタイ福音書では「山上の説教」と言われる説教で、その冒頭に今日の福音で引用されている「八つの幸い」と呼ばれている教えがあります。年配の方は「真福八端」というほうが、なじみがあるかもしれません。これらの「幸い」のうち、半分はふつう「幸い」であるとは言えない状態のように思われます。とくに最初の「心の貧しい人」は一般的には「心が冷たい」「自分のことしか考えていない」というような人々を表現する言葉です。しかし、この訳は誤解を招きます。本来は「霊において貧しい」という意味であって、霊的、精神的に助けを求めていることを意味します。さらに言うならば、「貧しい」という言葉はお金や財産が少ないことですが、「〇〇が貧しい」というと、悪い意味にとられてしまいます。しかし、本当はいろいろなことに恵まれず、満たされることを求めている状態のことです。そのように考えると、「心の貧しい人」「悲しむ人」「迫害される人」「義に飢え乾く人」は助けを求める人々です。なぜそのような人々が幸いなのかというと、助けを求める声に神が応えてくださるからなのです。
諸聖人の祭日にこの福音が読まれるのは、まさにそのような人々が「聖人」であるということなのでしょう。ところで教会において「聖人」というと「列聖された人」のことを表しますが、広い意味ではわたしたちの信仰の模範となる人のことです。「心の清い人」「平和を実現する人」などはまさにそのような人です。そして「迫害される人」には殉教者や正義を貫くために捕らえられた政治犯のような人が含まれるでしょう。しかし、先に書いたような助けを求める人々はそのほかにもたくさんおられます。苦しみや悲しみから解放されることを求めてイエスの教えを聞きに集まった人々はまさにそういう存在でした。
これらの幸いと言われる人々はまた、イエスの姿を現しています。イエスは人々とともに悲しみ、正義を貫くために迫害され、苦しみを受けられました。「聖人」はイエスの姿をこの世に示す人のことですが、貧しい人や苦しみを受けている人もイエスの姿を示しています。この福音が今日読まれるのは、列聖されていなくてもそのような人々の中にイエスの姿を見つけることを教えているのだと思います。「となりの人間国宝」というテレビ番組のコーナーは、国の無形文化財に指定されていなくても人間国宝にふさわしい人を探して紹介します。わたしにとって、「となりの聖人」はだれでしょうか。
(柳本神父)
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◎11月8日 年間第32主日 マタイ25章1~13節 花婿を迎えるために必要なもの
先週は諸聖人の祭日でしたが今週は年間に戻ります。11月は最終週から待降節が始まりますので、それまでの三回の日曜日には終末に向かう内容の朗読が行われます。今日の福音はその最初です。
今日の福音は10人のおとめのたとえです。このたとえを理解するにはその当時の結婚式の行事を理解する必要があります。
結婚式は夜に行われ、花嫁は自分の家で花婿を待ちます。花嫁の友人たちはたいまつを用意して一緒に待機します。彼女たちは介添え、つまりブライズメイドですね。そして花婿が花嫁を迎えに来ると、花嫁は花婿と一緒に花婿の家に行き、そこで婚宴が行われます。その道を照らすのが彼女たちの役割というわけです。
花婿はたびたび遅くなったようで、今日のたとえでも待ちくたびれたおとめたちは眠ってしまいます。ようやく到着したときに、5人のおとめたちは油を用意していなかったことに気づき、油を買いに行っている間に婚宴に入れなくなってしまうというわけです。
小学校のときには、先生や親から「あしたの用意は前の晩にしなさい」と言われたことがあるでしょう。ランドセルに明日の教科書、筆箱、絵の具や体操服などを用意します。わたしは今でも次の日に京都に行くときなどはリュックに必要なものを用意しますが、よく大事なものを忘れることがあります。スマホの充電コードとか手帳、当日の資料とか。お風呂セットは忘れないのに。そして5人のおとめのように、当日行く直前に必要なものを思い出して探しているうちに電車の時間に遅れそうになることがよくあります。
自省も含めて考えますと、五人のおとめは何を目的に来ているのか、何のためにたいまつを用意しているのかをよく考える必要があったということです。さらに言うなら、花婿を迎えることを何よりも喜んで待っていたらそういうことにはならなかったでしょう。
このたとえ話で「世の終わり」についてイエスは語られます。婚宴は神の国、花婿は神の国の完成のときに、ふたたび来られるイエスを表しています。初代教会では、最初は世の終わりは近いと考えられていましたが、次第に「いつくるかわからないから用意しておこう」という考え方に変わっていったようです。その考えが今日のたとえにも反映されています。この状況は今も続いているといえるでしょう。
入れなかった5人は自業自得とはいえちょっと気の毒ですね。これは神の国から追い出されるというよりも、心構えの大切さが示されていると考えることができます。せっかくイエスが来られるのに、先々週のおきての福音で示されたように、神を愛し、隣人を愛することを怠っていたらイエスとの出会いの機会を見失ってしまうということを教えているのではないでしょうか。世の終わりに限らず、毎日の生活の中でのイエスとの出会いを見失わないようにしたいものです。 (柳本神父)
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