柳本神父の主日の福音説教

◎6月7日 キリストの聖体 ヨハネ6章51~58節 「世の終わりまでともにいる」しるし

 聖霊降臨の主日で復活節が終わり、次の日から年間に戻っています。聖霊降臨以後の主日は先週の三位一体、今週のキリストの聖体の主日とお祝いが続くのでお気づきでないかもしれません。しかし、聖霊降臨は教会の誕生日とされるので、二回目の年間は教会の宣教を記念します。その教会の時代にイエスは聖体の秘跡を通してともに働かれます。

 第一朗読は旧約聖書の申命記から、荒れ野を進む民を養うために天から与えられたマナについて語られます。マナが降った出来事自体は出エジプト記16章に述べられていますが、福音のイエスの言葉に密接につながるようにこの箇所が選ばれているのでしょう。ちなみに森永マンナというビスケットがありますが、このネーミングは昭和五年の発売当時、クリスチャンだった森永社長が旧約聖書のマナから名付けたものです。
 福音は、イエスがパンを増やす奇跡を行ったあと、追いかけてきた人々に向けて語られた箇所です。「ユダヤ人たち」と書かれているので貧しい人たちだけでなく、ファリサイ派や律法学者などの指導者も含まれていたようです。イエスはその旧約のマナを「先祖が食べたのに死んでしまったもの」と言われます。彼らにとって、イエスの発言は受け入れがたいものでした。というのは、旧約聖書、とくに「律法」と呼ばれるモーセ五書(創世記~申命記)をないがしろにしているように感じたからでした。しかし、イエスはマナを否定したのではなく、神のもとから降ったご自分がこの世を生かすパンであることを告げられたのです。マナも単に飢えを満たすためだけではなく、神の思いに従って生きることが必要であることを示された神のわざでした。
 イエスが命のパンであることを表すために教会が行うのがミサ、すなわち聖体の秘跡です。弟子たちは宣教活動の中での喜びや苦しみを分かち合うために集まり、イエスの「これをわたしの記念として行いなさい」という言葉を思い出し、最後の晩さんの記念を行ったのではないでしょうか。そのときには「イエスがともにいて働いてくださる」ということを実感したことでしょう。第二朗読にあるように、聖体祭儀は早い時期から行われていたようです。そして今に至るまで、最も大切な秘跡として教会に受け継がれてきたのです。

 秘跡は目に見えない神のわざを体の感覚を通して体験するしるしです。とくに聖体の秘跡はそのことをはっきりと表しています。イエスご自身がパンとなって自分の体の中に来てくださる聖体の秘跡はだれにでもわかるしるしであるといえるでしょう。司祭あるいは聖体奉仕者が「キリストのおんからだ」という聖体を授ける言葉は「これはキリストの体です」という宣言です。そして「アーメン」と答えるのは、「はい、わたしを生かしてくださるキリストの体です」という信仰宣言です。ですから、みなさんもいただくときにははっきりと宣言してくださいね。そして心に来てくださったイエスとともに、周りの人にその喜びを分かち合いましょう。                   (柳本神父)

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◎6月14日 年間第11主日 マタイ9章36~10章8節 わたしたちも弟子から使徒へ

 今日は久しぶりに年間の主日です。前回も書いたように、聖霊降臨の週から年間が始まっています。「年間」というととくに記念することがない「普通の日」のようなイメージがありますが、イエスと教会の宣教を記念する大切な期間です。今日は弟子たちの選定と派遣についての内容ですが、わたしたちへのみことばとして読むこともできます。

 十二人の弟子はすでに選ばれていたとも考えられますが、ここで改めて名前が挙げられます。十二という数字はイスラエルの十二部族を表すので、あとで出てくるとおり、イスラエルの民への宣教を意味します。ずいぶん前のことですが、京都の聴覚障害者の山本さんに「弟子は手話でどう表しますか」と尋ねたところ、膝の上に両手先をちょんちょんと触れられました。なぜ?と思ってよく聞いたら、丁稚(でっち)の前掛けをあらわしているということでした。弟子と丁稚、呼び名も役割も似ていますね。丁稚は未成年でしたが弟子は大人です。でもイエスの弟子もイエスに従いながら宣教を学んでいたということは共通していますね。
 その弟子たちをイエスは宣教に遣わされます。いよいよひとり立ち、いや二人ずつ組にして、と他の福音にあるのでふたり立ちでしょうか。異邦人やサマリア人のところではなく、「イスラエルの失われた羊」のところに行きなさいとイエスは言われました。これは今日の福音の最初にある「飼い主のいない羊」のような、打ちひしがれている人々のところに行きなさい、という意味でしょう。イエスご自身もイスラエルのそのような人々から宣教を始められました。そして十二人という数もそれを表しています。
 いずれにしても、彼らは派遣されることを通して弟子から使徒となったのです。しかし、彼らはイエスの教えを十分マスターしたのでしょうか?派遣のあとイエスが受難を予告された際の彼らの反応や、ヤコブとヨハネの母の願いの箇所を読むと、イエスのことがちゃんとわかっていないように思います。「弟子たち、ほんまに大丈夫か?」と言いたくなりますが、イエスは「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさいとだけ言われます。これはイエスに代わって福音を教えるというよりも、「イエスによって天の国(神の国)がもうすぐ来るよ」と告げなさいということでしょう。それなら大丈夫ですね。もちろん自分なりに理解したイエスの教えも伝えたとは思いますが。

 イエスは冒頭で「収穫のために働く人を送ってくださるように願いなさい」と言われますが、この言葉は司祭召命を願う祈りで使われてきました。しかし、働き手は司祭や修道者だけではありません。わたしたちみんな、聖霊をいただいて社会に派遣されています。弟子たちは厳しい試験を受けてイエスに選ばれたのではありません。いろいろな立場の人が招かれています。共通点はただ一つ、イエスの呼びかけに従ったことです。わたしたちも同じイエスの弟子として招かれ、使徒として派遣されているのです。  (柳本神父)


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