◎8月2日 年間第18主日 マタイ14章13~21節 あなたがたが食べる物を与えなさい
先週の福音のあと、イエスが故郷のナザレで受け入れられなかったこと、そして洗礼者ヨハネの殉教の出来事が述べられています。イエスはそれを聞いて、舟で人里離れたところに退いたということは、自分や弟子の身に危険が及ぶことを心配されたのかもしれません。しかし、大勢の群衆が後を追ってきたので舟から上がり、病人をいやされます。
イエスは大勢の群衆を見て深く憐れまれます。これは9章の最後にも記されている表現です。そのときは「刈り入れ主を送ってくださるように祈れ」と言われましたが、ここではそれが病人のいやしにつながっています。イエスの宣教といやしの奇跡は、すべて神のみことばといやしを求めている群衆に対する憐れみからくるものだといってもいいでしょう。そしてパンを増やす奇跡もそれにつながるものだといえます。
夕暮れになったので弟子たちは群衆を解散させるようにイエスに提案します。ところがイエスは「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言われます。そう言われても困りますね。「えっ、自腹切って買いに行かなあかんの?」とドキドキしたかもしれません。しかし、イエスはどうするかを決めておられたようです。弟子たちが言うように解散させてもよかったでしょうが、イエスは人々がみことばにも食べ物にも飢えていたことをよくご存じでした。それで群衆に対する思いからパンを増やされたのだと思います。
イエスはパンを弟子たちに配らせます。ここで疑問に感じることは、パンはいつ増えたのかということです。イエスが祈られたときか、弟子に渡したときか、弟子が配ったときなのか。この奇跡は聖体の秘跡を表わしているといわれるので、それならば最初にイエスが賛美の祈りを唱えたときなのかもしれませんが、待っている人々がいたから増えたと考えると配ったときであると考えることもできます。いずれにしても手品ではないので、一連のプロセスを通して増えたということができるでしょう。そして、弟子たちがパンを配ったことで「あなたがたが与えなさい」と言われた言葉は実現したわけです。
配り終えてみんなが満腹したあと、残ったパンのくずは十二のかごいっぱいになりました。「くず」というと小さいかけらを考えますが、「裂いたもの」という意味なので、パンの半分や三分の一くらいのもので十分食用になります。「十二」はイスラエルを表す数字です。ということは、残ったものをイスラエルの国中に持っていきなさい、ということです。具体的には家族や友だち、あるいは帰り道に出会った貧しい人に与えたことでしょう。
このパンはイエスのみことばの象徴でもあります。わたしたちがミサに集まってイエスのみことばを聞き、イエスのからだをいただくのは単に自分が恵みを受けるためだけではありません。その喜びを持って帰って周りの人と分かち合ってこそ、その意味があります。「あなたがたが食べる物を与えなさい」というイエスの言葉はそのままわたしたちにも告げられているのです。 (柳本神父)
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◎8月9日 年間第19主日 マタイ14章22~33節 安心しなさい。わたしだ。恐れることはない
今日の福音は先週の続きです。イエスは弟子たちを舟で先に行かせ、ご自分は一人で祈られます。先週もそうでしたが、イエスは祈りと休息を大切にされていたようです。そのあと、今日の福音では湖の上で起こった出来事が述べられています。
弟子たちだけを乗せた舟は強風のために進みあぐねていました。これは弟子たちの心を象徴していたといえるのではないでしょうか。ガリラヤ湖を対岸のカファルナウムのほうに渡るときもそうでしたが、弟子たちの不安が向かい風に表されているようにも思います。今回はイエスがおらず、自分たちだけで次の目的地に行かなければならないという不安でした。そこへ湖を歩いてイエスがやってこられました。いつも言っていますが弟子たちが「幽霊だ」と恐れたというこの箇所が、お盆に近いときに読まれるのは偶然とはいえおもしろいですね。しかしイスラエルでは幽霊やお化けの存在をどのように考えていたのでしょうか。サドカイ派はあの世の命はないと考えていたようですし、あの世で裁きがあるとしてもこの世に迷い出ることはないはずです。それとも、得体のしれない存在を幽霊やお化けと呼んでいたのかもしれませんね。
イエスが水の上を歩いてきたというのは奇跡の一つといえますが、病人のいやしや悪霊を追い出す奇跡とは異なるようです。いうなれば嵐を静めたような、自然現象を超える奇跡であるということもできます。これはイエスが天地の創造主と同一の方であることを表しているといえるかもしれません。このときイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。弟子たちは「幽霊じゃなくてイエスさまだったんだ」と安心したことは確かでしょうが、むしろイエスは弟子たちの不安、恐れを打ち消すために「わたしがともにいるから安心しなさい」ということを言われたのではないでしょうか。その意味ではいやしの奇跡と通じるところがあるかもしれません。
ペトロが湖の上を歩こうとする出来事はマタイだけが伝えています。なぜペトロは自分も歩いてみたいと思ったのでしょうか。自分もイエスとともに歩みたいという思いの表れかもしれません。しかし、風が吹いて怖くなり、おぼれかけてしまいます。この出来事はペトロがイエスに「どこまでも従います」といいながら、イエスが捕らえられて裁判にかけられた際に三度弟子であることを否定したことを表しているかもしれません。そんなペトロをイエスは救い上げ、許してくださったのです。
わたしたちがいま、不安に思い、恐れていることはなんでしょうか。家族のこと、仕事のこと、お金や健康など生活にかかわることもあるでしょうし、ウクライナやイランにおける戦争、核兵器、隣国との関係など世界平和に対する不安もあります。しかし、不安や恐れはイエスの姿を見失わせます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というイエスの言葉に信頼し、希望を失わないことが大切です。 (柳本神父)
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