津教会史資料集

各種出版物の中に出てくる津教会関係の記事や昔を知る信徒さんの語られたお話などを掲載します。掲載記事はオリジナル記事を、信徒さんの語りは語られた事柄を掲載しています。名称、年代などページ内で矛盾する場合もございますがご容赦ください。

 

信徒の語り①

ビリヨン神父は慶応4年(1868年)25歳に長崎の地に上陸第1歩を印した。その後、各地におもむき、明治10年(1873年)30歳パリ外国宣教会ビリヨン師として来津。山の瀬古町(現在の大門通り)建具職人川出牧五郎家2階に伝道所を始める。ビリヨン神父は県内巡回中、明治16年頃の間、拠点の伝道所に信者が増えた為、近くの適当な場所に教会を建設したいとの念願であり、川出牧五郎が世話役で探し、当現在地カトリック津教会(津西堀端町)が適所となり決定された。なお経費については信者等も協力したが大坂天王寺教区が負担したと伝えられている。(2023年7月ころ、S.K.氏)

 

信徒の語り②
『津の星』第2号(昭和33年[1958年]11月23日発行)「信者訪問記(2)津の一番古い信者 Mさんと語る」より

(※表現・漢字表記などは、基本的に原本に従っています。注は編集部で付しました。)

……その頃教会は、今の山の瀬古町[注1]にありまして普通のおうちで、酒井様と云う伝道士様が、私宅へ公教要理[注2]を教えに来て下さり、私は夫と一緒にそのお話をきき、明治33年[注3]4月の御復活祭に洗礼を受けることが出来ました。その時私は19才でした。その頃の信者の方は、10家族10人位でした。

 教会へ行くのはなかなかもったいないと云って、日曜ごとに行くのはぜいたくのように云われたものでした。山の瀬古町の教会から今の西堀端[注4]の広いところに移りましたが、ここも矢張り普通の家を改造されたものでした。此処で私は結婚の秘蹟を受けました。……教会へ行くのには、丸の内のお堀端、岩田川添いに高い土堤があって、一丁おき位にガス燈が灯っているその暗い通りを、四旬節中など、ロザリオを唱えながら、通ったものです。

 その時の神父様はビロース神父様でした。ビロース神父様は、17年間津にお出でになりました。やさしい静かな方で、教会へ行きますと、いつも長い縁側の廊下を、又、広いお庭のポプラの立木の下道を、行ったり来たりしてお祈りなさっていられました。その頃の信者は百人位でした。御聖体をいただく為には、必ずその前に告白しなければなりませんでした。時々、信者の方の家で講演会がありました。大阪の方から、神父様が5、6人もお出でになって、沢山の未信者の人も集まって、紋付羽織袴で開会の挨拶をされたのを覚えております。時々信者の家をまわってロザリオ会がありました。クリスマスには子供が劇をしたり、御ミサの後おうどんの御馳走が出たりしました。

 それからメリノール会のマケシ神父様。あの恐ろしい戦争の始まる頃でした。憲兵隊からはにらまれるし、「教会へ何をしに行きますか?スパイの真似をしてはいけません。何か神父様に日本の様子を知らせるのでしょう。」等と、やかましく云われました。「もう行かないと、約束の印をおしなさい。」等と云われましたが、最後までおしませんでした。ヴェールと祈り本をかかえて、教になっていたと思います。信者の中には、警察署に呼ばれて尋問をうけた人も5,6名ありました。娘の夫も呼び出され、いろいろと尋ねられましたが、「私達の間にどんな話が交わされているか貴君方遠慮なしに教会へ聞きにお出で下さい。神様の教えを聞くだけで、他には何事もありませんよ。」と申して帰ったと、よく聞かされました。

 戦争が終わりに近づいて、津市が広島に次ぐ大爆撃を受け、家も焼け出され、庭木の間に筵を敷いて幾夜か電燈のない所で過ごしました。戦争も終わって、夫は町内のお世話をしておりましたので、配給物を取りに行ったり配ったり、その焼け跡に行ったり来たり、水が不自由で、その上食べる物も栄養がとれず、とうとう体を悪くしてしまいました。畳の上で寝たいと云うので、松阪病院(今の松阪教会のあるところです)に入院致しました。夫は長い間怒ったことのない人でしたが、長い間教会の務めを怠っておりましたので、案じておりました。よき最後をいただきますように、私は一心にマリア様にお祈りしていました。自分でももうよくならないと思ったのでしょうか「神父様を呼んでほしい。」と申しますので、早速その頃日本人の七崎神父様でしたから、松阪へお出でいただいて、終油の秘蹟を受け、よき最後を得ることが出来ました。

注1:現在の東丸之内17番5号付近か
注2:カトリックの教えをわかりやすく解説したもの。問答形式になっていて入門者のテキストとなっていた
注3:明治33年は西暦1900年
注4:現在地、西丸之内