観音寺山を愛する会
観音寺山を愛する会事務局:〒521-0226 滋賀県米原市朝日156-6

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観音寺所在地:〒521-0226 滋賀県米原市朝日1342

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観音寺は、伊富貴山観音護国寺といい、大原観音寺とも称されている天台宗寺院です。   
       
そのはじめは伊吹山中にあって、弥高寺・大平寺・長尾寺の三ヵ寺と共に伊吹山四大護国寺と呼ばれていました。
       
伊吹山護国寺は、仁寿年間(851年から853年)に三修沙門によって開墓され、元慶2年(878年)定額寺に列せられた名刹です。
       
観音寺の寺伝によりますと、貞和3年(1347年)に伊吹山中から現在の地に移ったとされていますが、観音寺に伝わる古文書などに
       
よりますと、それよりも80年余年前、鎌倉中期の正元年中(1259年〜1260年)に今の地に移転し、弘長年間から弘安年間に至る約20
       
年間にほぼ寺観と什物を整えたとされています。
       
鎌倉から室町にかけては、時の領主であった地頭佐々木大原氏によって手厚い庇護を受け、戦国時には、浅井亮政・久政・長政から
       
も多くの寺領を安堵されています。   
       
羽柴秀吉は寺領を安堵するとともに、長浜城主時代にたびたび立ち寄り、天正4年には観音寺に茶屋を申付けています。   
       
その頃小僧をしていた石田三成が鷹狩りの際に訪れた秀吉に、一杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、二杯目は中くらいの茶碗で
       
やや熱めのお茶を、三杯目は小さい茶碗に熱いお茶を差し出し、その才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が伝えられてい
       
ます。そのお茶の水を汲んだとされる古井戸も残っています。   
       
江戸時代になっても諸役を免ぜられ、観音寺村という寺院名が村名となり、彦根藩(井伊氏)の所領として幕末に至ります。   
       
境内には、本堂のほか、薬師堂、鐘楼、惣蔵、惣門などがあり、その内の本堂、鐘楼、惣門が国の重要文化財に指定されています。
       
寺坊は、盛時には二十三坊あったとされていますが、現在は本坊、玉泉院の二坊を残すのみとなり、参道の両側に広がる階段状の
       
台地には、わずかにその面影がみることができます。    
       
       
              
 
 
 
観音寺に現存している文化財 
 
 
※画像をクリックすると別画面で表示します。 
 
           
           
           
           
           
 
 
 
秀吉の出世観音 
 
秀吉が横山城主であったこともあって観音寺とのゆかりが色々と伝えられています。 
 
長浜城主 羽柴筑前守秀吉の頃には度々観音寺へ参詣したそうです。天下を取るとの大望を観音菩薩に祈願し、また観音様を守り神 
 
本尊として頂いたといいます。 後日天下を取るとそのお礼に観音画像を納めました。その軸には、
 
            ただのため大師のかげはありがたし 
                   今はわがみも天下とりなり 
                                   ひでよし奉る 
 
と賛があります。掛け軸は寺の宝として保存されています。 
 
 
芭蕉の句碑 
 
観音寺の惣門を入ってすぐ右手に伊吹山を造形したと思われるほどよく似た自然の石に句を刻んである石があります。 
 
芭蕉が全国を遊歴して、伊吹山の雄大な自然の美しさに感銘して美濃(岐阜)で詠んだとも、また近江(滋賀)で詠んだとも伝えられて 
 
います。 
            花にもよらず 雪にもよらず 唯これ孤山の徳あり
            其のままに 月もたもまじ 伊吹山 
 
                                        はせを翁 
 
 
籾を取り入れた阿弥陀様 
 
観音寺には23坊あり、坊の僧も百姓をしていました。昔は籾の乾燥はムシロを広げて天日に干したものです。 
 
11月頃のある日、籾を天日に干していたが北時雨で一転、俄かに掻き曇り雨が降ってきたので取り急ぎ坊に帰ってみると、干してあった
 
籾が片付けてありました。 
 
夜になって勤行に内仏に参ると、阿弥陀如来様が汗を流して全身に籾をつけておられました。如来様が代わりに籾を取り入れて下さっ 
 
たのです。その後「籾取り入れの阿弥陀如来様」と名付けられたと伝えられています。 
 
現在ではその坊はありませんが、阿弥陀如来様(木造)は観音寺に現存しています。汗を流された跡が首のまわりに何本もあります。 
 
 
水を飲みに出た竜 
 
本堂の台門紅梁は左甚五郎が刻んだと伝えられている竜の彫刻です。 
 
夜になると竜が居なくなるという噂が広がって皆が不思議に思いました。そこである夜こっそり潜んでいると、果たして門前の蓮池に出 
 
掛けて水を飲み始めました。これは大変だというので竜の目玉に五寸釘を打ち込み目が見えないようにしてしまいました。
 
それからは竜は水を飲みに出掛けないようになりました。「紅梁の竜」というのは大変珍しいものだそうです。 
 
その竜の目には今でも釘の痕がくっきりと残っています。 
 
 
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