観音寺山を愛する会
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石田三成
 
 
三献の茶と観音寺(横山臥龍山)
 
 
石田三成は、近江国坂田郡石田村(現長浜市石田町)で、永禄3年(1560年)に生まれる。本名宗成、小字を佐吉と
 
いう。父は京極氏の家臣、隠岐守正継木工頭正澄の弟である。
 
正継は、二男佐吉を連れて観音坂(朽木峠)を越え観音寺門前に出、同寺へ学問修業のため預けた。
 
観音寺は伊富貴山護国寺と称し、寺領14町、七堂伽藍二十三坊を有する天台宗の名刹であり、三修沙門が創設し
 
た護国四大寺の一寺である。
 
天正2年(1574年)夏、長浜城主羽柴秀吉は、大原野へ鷹狩に出た帰路観音寺に立ち寄った。
 
お供は小姓組頭於助(堀尾茂輔)、小姓於市(福島正則)、於虎(加藤清正)、於権(平野長泰)のほか、屈強な供侍
 
十騎ばかり・・・・ひとしお暑い真夏の午後で人も馬もびっしょり汗をかいている。
 
「長浜の秀吉じゃ!お茶を一服所望したい」
 
住職は、人馬の音に昼寝の夢を破られ慌てて出迎え、庫裏の茶の間に案内し、寺童子に命じてお茶を運ばせた。
 
童子は、大茶碗になみなみと温茶を恭しく差し出した。
 
「うむ。うまい!甘露、甘露」   秀吉はぐいっと一口に飲み干して
 
「もう一杯所望いたす」   すぐに二服目を運んできた。お茶は前よりは少し熱く、量は前の半分ほどである。
 
秀吉は二口に飲みながら童子をじぃっと見つめた。
 
「稚子、名は何と申すか?」   「佐吉と申します」
 
「佐吉か、佐吉もう一服くれい」   「かしこまりました」
 
今度は菓子を持っきた。それから程経て、前の茶碗より小ぶりな白天目にさらに熱い緑の抹茶をたたえ、茶法通り
 
静かにすすめた。   なかなかやるのう・・・・秀吉は三碗三温の神童ぶりに心の底から感嘆した。
 
「心がけのいい稚子じゃ、住職、わしにくれぬか?」
 
住職は佐吉に尋ねた。長浜の殿様と聞いて佐吉はうなずいた。
 
佐吉はこうして長浜城で秀吉に小姓として仕え、四百万石の禄を食んだ三成は、勇将渡辺新之丞を家来と召し抱え
 
秀吉を驚かせた。
 
渡辺は柴田勝家が一万石で、秀吉が二万石で招へいしようと言うと、十万石でないといやだと断ったという弥高の免
 
材である。
 
秀吉がどのようにして家臣にしたかと尋ねると、三成は「私が百万石の太守になったら十万石を与えよう、それまで
 
は私の四百万石を全部授けると約束しました」と答えた。
 
「そちの生活はどうする?」   「私は新之丞の所に居候することといたしました」
 
渡辺は三成の心意気にほだされ生涯三成に仕え、関ケ原合戦で最後まで戦って討死したという。
 
これが秀吉と三成の出会いである。
 
長浜で秀吉に小姓として仕えた三成は次第に出世して、従五位下治部少輔に任され、五奉行の一員に抜擢され、
 
湖北二十三万石佐和山城主となって善行を行った。
 
長浜市石田町には「三成産湯の井戸」も保存されており、観音寺には秀吉に茶を献ずる時に「水を汲んだ井戸」も保
 
存されている。
 
【 明治43年10月3日発行 近江史蹟 】 抜 粋
 
佐吉幼ニシテ敏慧、邑ノ觀音寺ニ學フ、トキニ羽柴秀吉長濱城ニ在リ、一日鷹ヲ郊外ニ放ツ會、
 
觀音寺ニ入リテ憇ヒ、渇シテ茶ヲ求ム、佐吉出て、茶ヲ獻ス、初メ巨碗ニ温茶六七分ヲ進メ、次ニ
 
半盞少し緩キヲ進ム、秀吉更ニ一碗ヲ求ム、佐吉乃チ濃茶ヲ小碗ニ汲テ進ム、秀吉其才氣ニ感
 
、寺僧ニ請フテ携ヘ帰リ、左右ニ侍セシム、長スルニ及ヒ、才氣縦横、濶達敏捷ナリシヲ以テ深ク
 
秀吉ノ意ニ協ヒ、其蘢幸ヲ受ク
 
後に中国地方征伐、山崎合戦、岐阜攻め、伊勢征伐、北国攻め等、常に帷幄に参じて功労多大で天正13年(1585
 
年)7月従五位下に敍し治部少輔に任ず。この時に三成と改名し、佐和山城に十八万六千石を領す。
 
18年小田原の役、軍に従って武蔵に入り館林城及び忍城を攻めて共にこれを下す。文祿元年(1592年)6月朝鮮に
 
赴きて監軍となり、諸營を巡視する。
 
慶長3年(1598年)秀吉病死。徳川家康の声望、日に隆して屡々秀吉の奮法に違ふ?あり、これに三成慨然、豊臣
 
氏のために家康の策謀を除かんことをはかる。
 
慶長5年(1600年)上杉景勝と作戦をねり、先づ景勝をして事を挙げ、家康が出陣するのを見てこれと戦うその隙に
 
乗じて、三成は西軍を率いて東に下り、挟撃以て家康を滅ぼさんとする関ヶ原の陣是だった。
 
西軍の首将で命令統一するも、小早川秀秋の内叛で東軍に寝返りしたため大敗をきした。
 
内叛がなかったら三成はこの戦いに勝利したに違いない、後の時代も大きく変わったことと思う。
 
三成は再起を考え身をもって免れ、伊吹山に隠れること70餘日、尚、高野山に至り其身を潜む。その後再挙を謀ら
 
として微行、湖北へともどる途中、田中吉政の手に捕らわれ慶長5年((1600年)10月に京都四条河原町にて斬罪さ
 
れる。行年41歳であった。
 
しかし、今日400餘年たったが、三成は自分の主人公に忠実で、裏切り行為をするようなことはしない人物で、今でも
 
尊敬されている。それが証拠に部下を大事にしたからだ。
 
士を愛した自分の禄高の中から、島勝猛に一万五千石、蒲生郷舎にも同様一万五千石を与えて用いた話は有名。
 
この2名も主君三成に従って関ヶ原の合戦でその屍を横に並べて立派に戦死、世に伝えた美談は三成の心配りの
 
すぐれた人格が、敗れても現れている。小早川の寝返りが今でも悔やまれる。
 
徳川によって三成が指導した、秀吉の全国統治の基礎となった太閤検地は、後に徳川幕府を支える重要な制度と
 
なっているのにもかかわらず、家康に対抗人物として、江戸時代に意図的に人物像がゆがめられてしまった。
 
三成が歴史的に果たした大きな役割を多くの人に知ってほしいと思う。
 
敗戦(慶長5年9月15日)後、笹尾山の本陣から伊吹山東麓相川山の谷あいを通り、粗川の流れに沿って春日谷へ
 
逃れた。翌16日槍ヶ先山北麓長者西方に潜み、日坂、諸家を経て新穂峠で伊吹山脈を越えて姉川源流の甲津原
 
へ脱出、17日つづら折りの山路を下り曲谷に着く。
 
白山神社の裏道から小字ムカイラまできて炭小屋に隠れ、炭焼きの着物に着替えた。だから今でもこの付近を「石
 
田ヶ洞」と呼んでいる。
 
18日吉槻から七曲り峠を越え草野川支流である松谷川の上流、指南谷の洞穴に隠れ、19日草野川西岸に渡り、板
 
杭川谷から谷口の村落に入った。
 
庄屋賢代は、湖北十九万四千石領主、石田三成の善政に報いるのは今と手厚くもてなし、寝間の床を外して三成を
 
かくまった。別れの際三成は感謝の涙で瞳を潤ましながら「親身も及ばぬ深き心入れ」と感ずるに余りあり、大阪城
 
に戻り秀頼公を奉じて家康打倒のあかつきには必ず厚き恩賞を取らせる当座の礼として、これなる石田家重氏の短
 
刀を授け、鳩入りの家紋と石田の姓を与える故子々孫々に伝えられたい・・・・庄屋の家では、この時以来石田姓を
 
名乗り「鳩入りの家紋」を用いた。
 
三成が隠れた寝室は恐れ多いと、出産や葬儀などには使わず別室で行ったという。庄屋屋敷は明治30年ごろ洪水
 
で流出し、末孫石田賢氏は今、別の地に住んでいる。
 
元屋敷跡には「石田神社」という小さな祠が建てられている。
 
谷口から北方への三成の足跡は二つに分かれている。京都で刑死したのは、三成の影武者という説もある。
 
通説 谷口⇒大谷山⇒高野⇒古橋法華寺(三珠院)⇒三頭山の岩屋
 
与次郎太夫に助けられたが、ついに田中吉政に捕らわれ四条河原町で斬殺される。享年41歳
 
異説 谷口⇒上山田⇒馬上⇒木之本⇒北国街道⇒秋田
 
秋田城主佐竹義宣の保護を受けるも寛永10年(1633年)1月死去。享年71歳
 
徳川幕府の厳しい詮議を恐れて、石田町には石田姓が一人もなく石田一族の墓はすべて砕かれ埋められていたが
 
昭和48年6月八幡神社東側に掘り起こした墓を集めて、「石田三成公及家臣供養塔」が建立された。
 
「散り残る紅葉は殊にいとほしき秋の名残りはこればかりぞ」と石田三成。
 
秀吉の死後、豊臣から徳川へと諸大名はなびいたが、三成は秀吉の恩義を最後まで忘れなかった。
 
大阪城の遺児秀頼を守って、関ヶ原で徳川家康と乾坤一擲の大戦を交えて、小早川秀秋の裏切りによって敗れた。
 
後年、水戸光圀は、「三成は憎からざるものなり人各々その主のためにすという義にて心を立て事を行うもの仇なり
 
とて悪むべからず」と説いて豊臣家の忠臣であることを暗にほのめかしている。
 
 
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