“友情と平和の精神(こころ)をふりかえり、次代につなげよう”
答礼人形「ミス三重」とは/里帰り計画
ネブラスカ大学州立博物館所蔵
 今から約80年前の1927年(昭和2)11月、58体の市松人形が「日米親善人形」として、はるばる太平洋を渡り、アメリカに贈られました。同年3月のひな祭りにアメリカの子どもたちから日本の子どもたちに贈られた約12,000体の「友情の人形」(青い目の人形)の答礼人形として、今度はアメリカのクリスマスの時期にあわせて贈ろうと、全国の子どもたちの募金によって、日本の人形製作技術の粋を集めて製作された人形たちでした。

最高レベルの市松人形

 幼女とほぼ等身の豪華な答礼人形は、1体350円という当時の庶民では考えられない値段でした。350円の市松人形は、現在では260万〜280万円ぐらいになります。その内訳は、人形制作費150円、衣装代150円、お道具類50円でした。
 それぞれの人形には、お茶セット・箪笥・裁縫箱・傘などの道具類の他に、その地域の子どもたちの手紙や作文もたくさん添えられました。そして「友情人形」と同じく、パスポート(大日本帝国人形旅券)や、日本郵船の一等客席の切符も持っていました。


【「ミス三重」といっしょに保管されている道具類・パスポート・旅券】
ネブラスカ大学州立博物館所蔵

三重からの答礼人形「三重子」

 答礼人形は、日本を代表する1体「倭日出子」のほか、各都道府県や6大都市および日本の統治下にあった朝鮮・満州・台湾・樺太からも贈られ、それぞれ「筑波かすみ」(茨城)、「蕗子」(秋田)、「東京花子」(東京市)などと郷土にちなんだ名前がつけられました。三重県からおくられた人形が「三重子」です。
 1927年10月1日、「三重子」の送別会が県立師範学校附属小学校で行われました。当時、附属小学校3年生だった女性は、「『三重子』はすごくかわいかった。涙を流さんばかり心を込めて『三重子を送る歌』を合唱しました。」と回想されています。また、「三重子」とともに贈られた手紙の中の文面も、「三重子」に対する思いがあふれています。
 三重県師範学校の附属小学校での送別会!それは涙のにじむような、真心からの会でした。
「三重子さん行ってらっしゃい、さようなら。お体を大事にして病気なんかしないようにしなさいよ」と一同がさけんだときには、私どもの目には涙がやどっていました。
 どうぞお使いの三重子さんを私どもと同じようにおかわいがりください。お互いに手を取り合いましょう。アメリカの国と日本の国とは、他国からうらやまれるほどになりましょう。
        津市尋常小学校総代 伊東静子

「三重子を送る歌」(人形送別歌)も歌われました。
 この送別会で歌われた「三重子を送る歌」は、作詞・作曲者も
メロディも不明でしたが、2008年9月、ネブラスカを訪れた際の
調査により、三重から送られた手紙の中から発見されました。

1 黒いおかっぱ ふさふさと 桜の花の咲いたよな
  可愛いお顔の三重子さま 長いお袖の三重子さま
2 星のお国へ はるばると 日本の子らの真心を
  伝えるつとめ 負うてゆく いとも貴き この使い
3 海のかなたは 遠けれど 手をさしのべて 待ちかねの
  幾千萬の友がある さらばゆきませ 三重子さま

三重県師範学校附属小学校6年生の鈴木富美さんが作詞、作曲:西田訓導となっています。師範学校から送られた封筒の中から発見されました。

大阪毎日新聞三重版(1927.10.1)

ネブラスカ大学で大切にされてきた「ミス三重」

 「答礼人形」たちはアメリカで大歓迎を受けました。そしてアメリカ各地を巡回し各州に贈られたときに、困った問題も出てきました。アメリカの人々が答礼人形に歓迎を込めて抱き上げたり、荷造りと荷解きを繰り返すうちに、人形と台座がバラバラになってしまったことです。「三重子」は、見つかっている写真から「兵庫県」の台座の上にある「ミス兵庫」(ミズーリ州セントジョゼフ博物館)であることが分かっています。
 「答礼人形」がどのように入れ替わっているか、日本の各地域から贈られた人形が今どこにいるかを究明することも大切ですが、忘れてはならないのは、アメリカの市民が、例えば「日本のMIEから贈られた人形」として、その人形を大切に保管してくれている事実です。ネブラスカ大学にある「ミス三重」は三重の子どもたちが当時心を込めて書いた手紙163通とともに80年間、大切に保管されてきました。そして現在、「MIEの人形」として時々一般公開され、ネブラスカの方々に愛されています。
 なお、「ミス三重」も「ミス兵庫」も滝沢光竜斉氏の製作で、滝沢氏は、現存する「答礼人形」44体のうち13体の作者でもあります。

各地で取り組まれている「答礼人形」里帰り
 贈られた「答礼人形」58体のうち、現在44体の所在が明らかになっています。これら「答礼人形」の里帰りは、1996年「ミス岐阜」、1998年には「ミス香川」、1997年「ミス兵庫」、最近では2003年・2007年に「長崎瓊子」、2007年に「筑波かすみ(茨城)」・「ミス福島」など、すでに32の県や市で行われています。また、1988年には、「ミス三重」も19体の人形といっしょに日本に里帰りし、全国の9箇所で展示されましたが、三重県に帰ることはありませんでした。

答礼人形「ミス三重」の里帰りを実現させましょう!!
 日米開戦の14年前、アメリカ国内では日本人移民に対しての排斥運動が高まる中、人形をとおした日米の友情と親善の交歓がありました。「友情人形(青い目の人形)」「答礼人形」の交歓に力を尽くしたシドニー・ルイス・ギューリック博士や渋沢栄一氏の業績は、もちろん大きいものがあります。そして、270万人のアメリカの子どもたちや大人たちが日本に友情人形を贈ろうという運動に参加しました。日本の子どもたちは一銭募金をおこなって「答礼人形」をアメリカへ贈ったのです。
 私たちは日米親善に大きな役目を果たした「ミス三重」を招いてその労をねぎらい、友情と平和の精神をふり返り、装いを整え直して再び米国に帰して友情と親善の象徴としての役目をいつまでも果たしてもらうために、「ミス三重」の里帰りを実現させたいと願っています。
 しかし、実現のためには相当の費用もかかり、県民の皆様の深いご理解とご協力が欠かせません。80年前、たくさんの人々の運動によって実現した友情人形の交歓です。広く県民運動で実現させるため、趣旨をご理解いただき、募金活動や展示会の開催にご協力いただきますようお願い申し上げます。

答礼人形「ミス三重」の里帰り計画

2010年 展示会開催計画

3/02〜3/07 
3/09〜3/14
3/16〜3/21
3/23〜3/28
3/30〜4/04
4/06〜4/11
4/13〜4/18
4/20〜4/25
4/29〜5/04
5/05〜5/10
四日市商工会議所ホール 
桑名サンファーレ 
鈴鹿メディアパーク     
名張リバーナホール     
鳥羽ミキモト真珠島     
阿児ライブラリーアートホール
熊野古道センター      
紀南ツアーデザインデンター 
松阪文化財センター    
津松菱百貨店      
「ミス三重」お別れ会 5/22 津センターパレスホール


三重県内の青い目の人形たち


 ひなまつりにアメリカから「青い目の人形」がプレゼントされ、そのお返しに日本から「ミス三重」など答礼人形がクリスマスに贈られる。
 そんなすてきな人形交流が1927年に行われました。  
 このページでは、三重県に残っている「青い目の人形」について紹介しましょう。
 1927年にアメリカから、約12000体の「青い目の人形」が贈られ、約200体が三重県の小学校や幼稚園などに配られました。
 人形をもらった学校では、子どもたちが盛大に歓迎会をして迎えました。
 ところがその後、日本とアメリカは戦争になり、たくさんの人形が「敵の人形」として処分されました。
 けれど、そんな時にも人形を守ろうとした人がいました。
 心ある人たちに守られた人形が、三重県では9体残っています。

 
名前
贈られた学校・園
メ  モ
不明

三重郡
菰野町
千草小学校

現在は、菰野町在住の方が保管されています

 1943年に職員室で処分された人形を、その日のうちに小学校の女性の先生が自宅に持ち帰り、こわれた所を直して、大切に保管されました。
 服は1983年に新しく作られています。
現在は、菰野町在住の方が保管されています。

不明

1990年に 小学校の 子どもたちが、
新しく「ロザリー」 と名づけました。

津市
芸濃町
明(あきら)小学校
 
 戦争中は、校舎の中にあった奉安庫の天井裏に誰かが隠したそうです。
 その後、小学校の隣の資料館に置かれていて、1989年に「青い目の人形」と判明し、小学校で展示されるようになりました。
不明
津市
新町小学校
 詳しいことはわかっていませんが、講堂に隠されていたという話が伝わっています。現在は学校内の資料室で保管されています。
 服は2007年に元の服と同じように新調され、元の服も大切に残されています。
不明
津市一志町
川合小学校
 戦後間もない1945年9月に、小学校の校長先生の家の蔵にあったことがわかっています。
 1986年に小学校の倉庫に置いてあるのが見つかり、その後校長室で飾られるようになりました。
 
グレース
松阪市
嬉野町
豊地小学校
 戦争中に「可愛い人形を焼却できない」と校長先生が思い、女性の先生に頼んで、自宅の蔵で保管してもらいました。女性の先生は義母と相談して、他の家族にも秘密にして保管したそうです。
 1977年に、その女性の先生が小学校に戻しました。

エセルアルワ

 

1993年に吉コに「アニー」という名前をつけてもらいました。

伊勢市
中島小学校
(中島幼稚園)  

現在は吉コ
(東京都)で保管されています。

 戦争中は中島幼稚園にありましたが、もともとは中島小学校(当時宇治山田第五小学校)に贈られた人形と考えられます。
 幼稚園で処分されそうになった時に、保母さんがもらって自宅で保管されました。1992年に保母さんから吉コ(東京・浅草橋)に寄贈されました。
 服は保母さんが1992年に、元の服をもとにして新しく作りました。
メアリ
志摩市
志摩町
越賀小学校
 飾ってある木箱から、1927年の7月10日に小学校に届いたことがわかります。
 戦争中は学校の近くの「越賀の舞台」の屋根裏に隠されていたそうです。その後、1975年に小学校の理科室から見つかりました。
メリー
伊賀市
阿山町
河合小学校
 詳しいことはわかっていませんが、1988年に図画室の大きな木箱の中から丁寧に包まれた状態で見つかりました。その時に服はなく、当時の先生が新しく作りました。
 県内の人形の中ではただ一つ発声器の状態が良く、今でも泣き声を聞くことができます。
エリザベス・
ハイネ
伊賀市
花垣小学校
 
 詳しいことはわかっていませんが、講堂の物置から見つかったという話が伝わっています。


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答礼人形「ミス三重」の里帰りを実現させる会
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