紀北作文の会 会報 第1号      

 1号

2号 

3号 

4号 

5号 

6号 

 7号

8号 

9号 

10号 

11号 

ホーム 


  平成3年、紀北作文の会が復活しました。子ども達と授業を楽しみたい、
 よくわかる授業を作りたい、子ども達の笑顔が見たいという、熱心で良心
 的で凝り性な数名の教師が集まりました。時には10名を超える時もあり
 ましたが、最終的には1ケタの集まりでした。本物の教育論議をしたいと
いう教師だけが集まったのです。土曜日の午後1時に青年の家に集まって、夕食に1杯のカレーライスを食べ、翌朝の8時まで、徹夜の議論もたびたびでした。今思えば、
よくぞ頑張ったと思いますが、『普通の教師は、こんわなあ。』。そんなサークルで数えきれないほどの実践を学び、強い気持ちを作りました。『すべては、子どものため』、
というよりは、『自分のため』に学んだ数年間でした。会報をご覧いただければ、討議の中身がわかります。ぜひ、一読いただきたいです。いっぱいある中で、この場をかり
て私見を述べます。それは、記録者の大事さです。提案者も司会者も参加者も大事です。しかし、最も大事なのは、記録者です。『記録者は、速記者に非ず』、会議の中身
を整理し、まとめ、提起しなければなりません。言葉にすると主観が入ります。記録者の見識と力量が問われます。特に研修会では、それぞれの意見の質を見極め、確か
めるべきことを見抜かなければなりません。記録者をおろそかにする会議は、発展しません。実のある会議にならないでしょう。作文の会の会報をぜひぜひ読んでください。
記録者の優れた見識と実践力を感じます。現在の学校は、どうでしょうか。子ども達は、爽やかな笑顔で授業に臨んでいますか。


 




  紀北作文の会の考え方

作文の会の考え方は、長い間の実践によって培われてきた。そこでは、何よりも子どもの主体的な読みを大事にする。
いかにすぐれた文学作品を与えても、子ども主体の高まりのないところでは、自分の『人間の見方や世界の見方・考
え方』を、見つめなおしたり揺るがしたりすることにはならない。作品中の人物が、社会と人間・人間と人間・自然
と人間という関係の中で、矛盾を生み出し、矛盾を感じ、その矛盾を生き抜く。その生き方が真実であるか、その人
物が真に血の通った人間として生きているか、それが作品の価値を決定する。その作中の血の通った人間、真実を生
きる人間は、特殊で生々しい具体を生きている。そして、人間一般の真実性を内包しているのである。そういう人物
を典型的人物というならば、文学教育は典型(真実)を読みとり、典型的な人物と共に生きる(間接経験とも準体験
ともいう)ことだ。「共に生きる」とは、読みつつ感情まるごと共鳴し、発見し、反発するような過程であり、読み
手の自己そのものが変革されていく過程である。こうした文学教育は、他教科での豊かな認識づくり(特に、生活作
文での物の見方・考え方)や子どもの主体性確立を目指す学級作りと呼応しなければならない。昭和40年頃、紀北
作文の会は、文学教育の基本的な考え方を次のように述べている。『文学教育とは、すぐれた文学作品を媒介として、
子ども自身の中に豊かな感情を育み、主体的な自己変革を引き起こし、子ども達を真に現代の課題にこたえ得るよう
な主体者として育てていく営みである』と。それゆえに、すぐれた作品の発掘と作品の分析検討は、大切な仕事なの
である。

 

 1号

2号 

3号 

4号 

5号 

6号 

 7号

8号 

9号 

10号 

11号 

ホーム 


   
ページトップへ  紹介のページへ