ヲシテ文献





時代の認識・言葉の時代遡及
『ホツマツタヱ』が『古事記』『日本書紀』の原書であることは、『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』(松本善之助、毎日新聞社・昭和55年)、
『ホツマツタヱを読み解く』(池田満、展望社・平成13年)に詳しいのでご参照ねがう。 松本善之助先生が悲願とおっしゃていた基礎資料も
『定本ホツマツタヱ』として刊行できた。記紀との対比こそが、時代認定のキーとなる。 ヲシテの時代の認識は殊に大切である。
ヲシテ文献が記された時代は古い。 『ホツマツタヱ』の後編(29〜40アヤ)で千数百年前、 『ホツマツタヱ』の前編(1〜28アヤ)にまで溯る
と二千数百年もの前にもなる。さらに、『ホツマツタヱ』の先行文献である、ミソキノフミ(5−2)やミミノハ(16−62)などではさらに数百年を
溯る。このため、使用されている言葉は相当の古色を帯びていることを理解してもらう必要がある。
単純な漢字かな混じり文への当てはめ作業に終始しているレベルだと、言葉の古色の違いが理解できないでいるわけだ。
ヲシテ文献は詩文体の文章で記されているので、その言葉の読解には一種高度な努力を必要としている。
この、ひとつの例としてハラミの宮(みや)の位置についての解明を下に記す。

7、ヲシテ文献の研究方法-1

ハラミの宮は、富士山の南麓であること
ハラミの宮は、ハラ、ハラミ、またはトシタミヤとも言う。八代アマカミのアマテルの初めての政庁としてのミヤである。また別名、サカオリの宮でもあった。『ホツマ辞典』のハラ・ハラミ(72〜74ページ)の項に詳しく記している。ハラミノミヤは、富士山の南麓であった。このことが判る用例の出典箇所からの辿(たど)り方を例示する。最古の完写本の和仁估安聡本を掲げる。

『ホツマツタヱ』の40アヤ3頁にでる出典の箇所。
ヤマトタケさん(ギミ)のおっしゃることに、サカオリのミヤは、昔のハラノミヤであった。
つまり、サカオリのミヤは、往古のハラミのミヤと同一場所であった事が解かる。
 ツキオコス 、ギミノタマワク
 サカオリノ 、ミヤハムカシノ
 ハラノミヤ 、ナオナガラエリ
ヤマトタケさんの出典ページについては、『ホツマ辞典』の年表の296p〜301pを御覧下さい。
『ホツマツタヱ』の出典ページを記載しています。これを参照して、原文をお読み頂くと、解かり
易くなります。
なお、‘日本武尊’(『日本書紀』)・‘倭建命’(『古事記』)の読み方について、近頃ヤマトタケル
の読み方が繁行している。これは、明治期以降の事々でしかない事を忘れるわけには行かない。
そして、『古事記』『日本書紀』の原書である『ホツマツタヱ』には、全典拠の用例がヤマトタケであった。

『ミカサフミ』の121〜122頁に出典する典拠。
ヨロコウミ、ハツニヲウミノ
ヱトノコノ、ヱミコアニツギ
ヲウミタス、オトミコノスム
トシタクニ、コレイマハラノ
ミヤノナモ、トシタ トイイテ
この用例から、ハラのミヤの古名として、トシタミヤがあったことが解かる。
                      ・
また、ついでながら、初代クニトコタチさんの本拠地がヲウミ(いまの琵琶湖沿岸)であったことも、この典拠によって解かる。ヱミコとは、二代クニサツチのヱのミコトのことであるからだ。つまり、クニトコタチ建国の故郷は琵琶湖沿岸であることが解かる。このことは、『ミカサフミ』ではじめてはっきりする。つまり、日本の本当の建国の故郷は、湖国であった事が解かる。
『ミカサフミ』を見なくては、本当の日本の根本のところが解からない。

『ミカサフミ』の100頁に出る典拠。
ナガラエト、ヲヲヒヤマ
トシタミヤ、サラニツクリテ
ここでの、とは、南を意味する。つまり、ヲヲヒヤマの南にあったトシタミヤを新改築して、ハラミノミヤとなしたのであった。このあと、『ホツマツタヱ』と同文箇所の文章になってゆく。(6−1)
つまり、ヲヲヒヤマ南麓のトシタミヤ、これを新改築したのがハラミノミヤであったことが解かる。
では、ヲヲヒヤマとはどこか。これは、ハラミヤマ、つまり富士山である。『ホツマ辞典』の74〜75頁に詳しいのでそちらを参照いただこう。 なお、オオヒヤマとして3−17、24−100、28−14の典拠があることを添えておこう。

上に記した三例の典拠から、ハラミノミヤは富士山の南麓であったことが判る。

『ホツマツタヱ』も、『ミカサフミ』も共に、和仁估安聡本を掲(かか)げた。原書の趣きに接していただくのは尊い事だと思う。
これはこれとして、『古事記』『日本書紀』との原文対比をしてある『定本ホツマツタヱ』を手にしてもらうことも大切であると思う。
 今、上に掲げた出典箇所のいずれもが漢字文献には、一行も訳出されていない事実が一目で判るからである。

出来事の検索の方法
詩文体の文章で記された『ホツマツタヱ』などのヲシテ文献で、諸事の出来事の検索をするのは、手間がかかる。こんな時、『ホツマ辞典』の年表や、アマカミの表を活用してもらうと便利である。
たとえば、神武天皇の即位にいたるまでの事情について調べることに、例をとってみる。
先ずは、『ホツマ辞典』のアマカミの表を開いてみよう。260pである。

神武天皇は、ヒトノヨの第一代で、‘タケヒト’の呼び名がある事が解かる。そして、即位のことは、『ホツマツタヱ』29アヤ66ページに典拠があることも解かる。

で、次に、そこにいたるまでについて、を知るためには、『ホツマ辞典』の年表を見よう。‘ヲシテ時代歴史年表’280pである。

神武天皇

『ホツマ辞典』
←アマカミの表 



アススコヨミの始まりは、大きな変革点であるので、
ここを見てみよう。 『ホツマツタヱ』の28アヤ65ページである。
カミノヨ(上の代)と、
ヒトノヨ(人の代)との接点がどのようになっているのか。
カミノヨは、天上世界のことなのだろうか?
 このことがわかるのが下に掲示した個所の付近ということになる。

『ホツマツタヱ』
←28アヤ
  65ページ

『ホツマ辞典』
  (第二版) 
   年表→

‘タケヒト’(神武天皇)への譲位が27−83にあることが、上記の年表で解かる。のちの即位との意味合いの相違を知るためにも、ここは見ておきたい。

『ホツマツタヱ』
27アヤ
    83ページ→


そもそもの、神武統征つまり、
ヤマトウチの発生せねばならなかった原因は、ナガスネヒコの
専横にあった。 このあたりの事情については、
 28−102に典拠があることが、解かる。


『ホツマツタヱ』
←28アヤ
    102ページ

これら、諸所の典拠を掲げたが、『古事記』『日本書紀』に翻訳されていなかったことが、
一目瞭然に判別する事が出来る。
 こういった意味で『定本ホツマツタヱ』の利用価値は、高いといえよう。
『定本ホツマツタヱ』には、当該時代の『古事記』『日本書紀』の記事について、一文字も残りなしに記載している。

ヲシテ文献の位置関係が理解された上となると、記事内容の評価判断のなされ方に変化がおきる。
『ホツマツタヱ』にあって、『古事記』『日本書紀』に記載のない記事内容こそ、忘れ去られていた
大切な真実に古伝であると判断できる事になる。

ヲシテ文献の位置関係が理解される前だと、
 この本にはこう書いてあり、また、‘秀真伝(しゅうしんでん)’には
                    こう書いてある。
という言葉を羅列するに過ぎなかったのだ、が。

   平成19年(2007) 9月17日 更新版、C. 池田 満
                                                               

8、ヲシテ文献の研究方法-2

9、ヲシテ文献の研究方法-3

1、概要

2、原典紹介

4、ヲシテ書美術展−1

3、解説書籍紹介

5、ヲシテ書美術展−2

6、ヲシテ書美術展ー3

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要する所、漢字以前の日本を、漢字に当てはめようとするのが、根本的にムリなことだったのです。
この、構造的な誤謬について、気づいて下さる事を願ってやみません。 
本当の日本の輝きに到達していただきたい!

7、ヲシテ文献の研究の方法
  について、例を掲げて述べます。
  その1

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