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在りし日のダーク

月日が過ぎるのは速いもので、愛犬ダークが逝ってから早や3年が経ちました。この間長かったような、あっと言う間の出来事だったような?複雑な心境です。幸いペットロスにもならず、毎日元気に生活しています。ただ不便な事は、日課だったダークとの散歩が出来ず運動不足に陥った事でした。そこで、毎日5000歩を歩くことを目標とし、ダークと歩いていたコースを1人で歩くようにしました。結果、5000歩行は私を健康的な生活が送れる体にしてくれました。また散歩道では、昔ダークと仲良の良かった犬やその飼い主さん達によく出会います。日によっては数匹の犬たちとも。私は彼ら(犬達)の頭を順に撫で、時には立ち止まってその飼い主さん達と会話を交わします。その事が私を随分勇気づけてくれました。この頃では、雨の日は散歩を休もうかな?と一瞬迷いますが、ダークが生きていたころは、それこそ雨でも台風でも降りしきる雪の日でも散歩に行っていたことを思い出し、頑張って散歩を継続しています。今日は久しぶりにダークを偲んで、在りし日のダークを綴ってみたいと思います。

 

    

 

ダークは2002年5月20日、松阪の常徳寺と言うお寺で生まれ、その後ペットショップの“もらって下さい”のコーナーに連れてこられた子犬でした。私が初めて彼女に出会ったのは、生後1ヶ月経った6月22日のペットショップの店内でした。体重1,kg、体長32cmの見るからに汚い子犬を私たちは引き取り、ダーク(汚い,濃い)と名付けました。1〜3の写真は我が家に来てから10日経った時のものです。1に写っている手前のライターは、ダークの大きさを対比させるために置いたものです。兄弟は4匹で、その中でもダークは一番やんちゃでした。それが決め手で選んだのです(後で後悔するとも知らず)。2の写真は鼻の周りが黒くなっていて、明星食品のパッケージに載っているチャルメラを吹くおじさんに似ている事から、私は彼女を“チャルメラおじさん”と呼んでいました。3は意志が強そうな目つきのダークで、この頃からすでにやんちゃぶりは現れていました。4は姪(妹の子)が、我が家に遊びに来た時に撮った写真です(生後2ヶ月)。この時期のダークは親兄弟と離された寂しさからか、また1匹でいる事の不安からなのか?誰彼となく抱かれていました。<後のダークは、人に抱かれることはあまり好きではなくなっていました。>

 

    

 

その寂しさは行動にも表れるようになり、ついには飼い主にまとわりついて離れなくなってしまいました。そうなのです。気が付いたら私の足下には何時もダークがいたのです。これではうっかりすると、ダークを踏みつけてしまいます。考えた私は、ダークの首輪に猫の鈴を付けました。これならどこに居てもダークの存在が確認できます。と言うわけで、我が家では猫を飼ってもいないのに鈴の音が響き渡っていました。1,2が首輪に鈴を付けているダークです。1は生後2ヶ月半のダークで、この頃には拠点(住居)は屋外に移していました。もう鈴を外してもいい頃でしたが、可愛いのでしばらくはそのままにしていました。やっと毛が生えて柴犬らしくなってきましたが、でも見ようによっては狐にも似ているようでした。私たちは面白がって”狐、キツネ“とはやしたものです。2は生後3ヶ月のダークで、頭でっかちな生意気な犬に成長しました。3〜5は生後3ヶ月半のダークです。普段は外につながれているのですが、食事は飼い主と一緒に居間で食べていました。写真は食事の後のリラックスタイムで、ふざけたポーズをとっているダークです。

 

    

 

1は生後6ヶ月のダークです。もう立派な大人になりました。でも、このわずか6日後に、ダークは交通事故に遭遇してしまったのです。それは忘れもしない2002年の11月22日の出来事でした。私の不注意からダークに3ヶ所もの骨盤骨折を負わせてしまったのです。2はすぐ創外固定の手術を受け、4日間の入院後我が家に戻った時のダークです。術後の経過は順調だったのですが、その後2回も自然脱臼(骨盤から骨頭が外れる)を繰り返し、とうとう右脚骨頭切除をしなければならなくなりました。びっこになるかと心配したのですが、幸い術後骨頭周囲の筋肉が発達し、2週間後にはまた元のように走れる様になりました。以後、高い所から平気で飛び降りたりジャンプをしたりと、普通の犬と変わりない生活を送りました。動物の強い生命力には驚かせられました。しかし右脚の骨頭部分には最後まで一筋の傷跡が残りましたが・・・。2004年6月ダークは避妊手術を受けました。それが3,4の写真です。3はまた痛いことをするの?と、不安げに先生を見上げているダークです。獣医さんからは「ダークは3ヶ所も骨盤を骨折しているので、骨盤内が狭くなっている可能性があります。出産はおそらく帝王切開になるでしょう。」と、言われていました。また手術のトラウマからか、お尻に(骨頭部分)に手を触れられる事を極端に嫌がっていました。これではオス犬は交尾の体勢を取ることが出来ません。それで仕方なく繫殖を諦め手術をすることにしたのです。4は手術台の上で神妙にしているダークで。隣には「すぐ終わるから、大丈夫だよ」とでも言っているのか?もう一方の飼い主が寄り添っています。以後ダークは以前にも増して、お尻に触れられる事を強く拒否するようになりました。日課の散歩の後はタオルで全身を拭くのですが、お尻を拭くときはまるで虐待を受けているかのように激しく啼きます。「ダークそれはないだろう。」と思うのですが、よほど受けた手術が怖かったのでしょうね。5はふざけて眼鏡をかけているダークです。

 

    

 

やんちゃに育ったダークはついにやらかしました。写真1,2は2006年1月に撮影したものです。前日に雪が降り、外は寒かろうとダークは玄関に入っていたのです。ところが翌朝、私は玄関を見て仰天してしまいました。壊れた壁を後ろにしてダークは平然と座っていたのです。まるで、「私は何もしていませんよ。壁が勝手に崩れたのです」とでも言いたげに。「こら、なんて事をしてくれたのや!」と一応怒ってはみたものの、動物には通じるはずもありません。でも雰囲気で叱られたと解ったのか?、壊れた壁を後ろにしてダークはふて寝してしまいました。それが2の写真です。なんともはやです。この後大工さんと相談し、壁の上から化粧板を一面に張ってもらいました。この様にやんちゃなダークですが、知能は優れたものを持っていました。何時ものように居間で食事を終えたダークは外に出たがっていました。しかし背が低いダークは、居間の扉のノブには手が届きません。そこで思いっきりジャンプをしてノブを下に倒そうとしました。しかし悲しいかな、ノブはびくりともしませんでした。「えっ、ダークいつの間にそんな事を覚えたの?」と私たちは驚きました。そうなのです。ダークは私たちが扉のノブを下に倒して居間を出ていくのを、何時もじっと見ていたのです。ダーク生後5ヶ月の時の事でした。また外では長い引綱に繋がれているのですが、これまで1度もその引綱に絡まる事はありませんでした。これほど知能が優れた犬なのですが、自分が不利なるようなことは絶対しません。それは例え飼い主の命令であってもです。「ダークおいで」と言っても、気が向かなければ聞こえない振りをします。3〜5は“待て”の訓練中です。食べる事が大好きなダークは、おやつがもらえるとあってやる気満々です。5はせしめたおやつを得意げに食べているダークです。

 

    

 

,2はある日の我が家の食事風景です。何時ものように一升瓶をまるごと1本自分の横に置いた旦那は、寿司屋で出されるあの大きな湯呑にお酒を注いで飲んでいます。それを見ていたダークは、これは美味しいものに違いないと匂いを嗅ぎに寄ってきました(写真1)。一升瓶からは甘いお酒の匂いが漂ってきます。思わずダークは瓶の縁をペロペロと舐め始めました(写真2)。「どうや、美味しいやろ」と、旦那は上機嫌です。「酒好きはあんただけで沢山。ダークまで酒好きにしないで!」と私は叫びました。けれど飲むほどに気が大きくなる旦那は、酒のつまみも気前よくダークに与えてしまいます。勿論ダークは拒否しません。故にダークは肥満犬になってしまいました。このころの(生後1歳半)ダークの体重は11kgを超えていました。3,4は雷恐怖症で風呂場の中に避難しているダークです。犬の聴覚は人間の4〜10倍と言われ、特に大音量がする雷は犬たちにとっては天敵です。ダークも然りです。しかしダークの怖がり方は異常でした。察するに、どうも私が留守をしていた時、家の近くに落雷があったようです。それ以降、ダークは雷が鳴ると狂ったようになりました。どんなに落ち着かせようと思ってもダメでした。試しに厚い壁で仕切られた風呂場に入れてみると、最初のうちは良かったのですが、そのうち風呂場の中でも暴れまわり扉を引っ搔くは、よだれは垂れるはで大騒動になりました。以来雷が鳴ると、今度は飼い主の方が混乱するようになってしまいました。そのダークも晩年は高齢や病気で聴覚が著しく障害され、最後の1年は雷が鳴っても外で平気で寝ていると言った状態でした。これって嬉しいの?、それとも悲しいの?。5は近所の犬友達に塀の外から挨拶をしているダークです。この様にダークとは16年も伴に暮らしていたのですから、思い出はまだまだいっぱいありますが、本日はこれまでにしたいと思います。次回はまたの機会にしたいと思います。

                              トップページへ                    記・令和3年9月26日