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伊勢西国33所・第6番金胎寺と鳥羽周辺の6寺巡り

前回は鈴鹿市にある伊勢西国33所・第18番札所の府南寺を巡ってきましたが、今回は第6番である金胎寺とその周辺の6つのお寺を巡ります。出発は近鉄鳥羽駅で、そこから7寺を歩いて巡り開運を授かります。行程は約7qです。鳥羽には鳥羽水族館やミキモト真珠島、それに鳥羽湾巡りなど有名な観光スポットが沢山あります。それなのに何を好き好んで、地味で目立たない鳥羽のお寺巡りなのか。しかも地元民しか知らないであろうお寺を。鳥羽の観光課と近鉄は考えたのだと思います。この地味な7寺をひとまとめにして『開運7寺巡り』と称すれば、ハイカーにも又お寺マニアにも喜ばれ、鳥羽を訪れる人が増えるのではないか。そしてあわよくば鳥羽の新名所になるかもしれないと。これはあくまでも私の推測であって何の根拠もありませんが、そう思わせるほどパンフレット(近鉄ハイキング)には、物の見事に知らないお寺が7つ並んでいました。

 

    

 

1はそのパンフレットで、2は当日のコースマップです。平成29年5月28日9時20分、私は近鉄鳥羽駅に降り立ちました。受付は9時30分なのに、もうすでに多くの人が列を作っていました。3はJR鳥羽駅で、近鉄鳥羽駅はこの表手側になります。空は五月晴れで少し汗ばむほどの陽気です。受付を済ませカメラにマップ、それにお弁当とペットボトル等をチェックし、さぁ〜出発です。4は駅前に敷かれているタイル画の観光マップです。そこから線路沿いに少し歩くと5の大鳥居が見えてきます。私は伊勢の生まれなので、今まで大鳥居が建っている事に何の違和感もありませんでした。しかしよく考えてみると、伊勢は伊勢神宮があるから大鳥居があるのは理解出来ますが、鳥羽にはなぜ大鳥居が建っているのだろう?。で、調べてみました。するとこの大鳥居は、ここから歩いて30分の所にある讃岐金刀比羅宮の鳥羽分社の参道に建てられた鳥居だそうです。驚きました。まさか鳥羽に讃岐金刀比羅宮の分社があったなんて。後からよくよく写真を見てみると、確かに鳥居には金刀比羅宮神社と書かれていました。NHKのテレビ番組“チコちゃんに叱られる”ではないけれど、『ボーっと生きてんじゃねえょ!』ですよね。でも年齢を考慮すると、これから先はこの上に認知症がプラスされ、さらにボーっと生きていく事になるのでしょうねぇ。困ったものです。

 

    

 

1は鳥羽街道の表示板で、ここは岩崎通りです(上のコースマップを参照)。2はそこから7〜8分歩いた所にある妙性寺(みようしょうじ)です。今日巡る1番目のお寺です。ここは浄土真宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来仏(写真3)です。1624年に九鬼家の家臣・野呂治左衛門の宅地にお寺を建てたのが始まりだと言われています。元宅地だけあって、こじんまりした質素なお寺でした。4は賀多神社で妙性寺から4〜5分先にあります。5はその神社の鳥居脇にある“九鬼の千本杉”です。当時鳥羽城主であった九鬼嘉隆は、豊臣秀吉の命を受けて朝鮮に出兵します。その時ここの神木を使って日本丸(軍船)を建造し軍功をあげました。で、凱旋後嘉隆は神恩を謝して千本の杉を植えたそうです。その内の1本が今も残っているこの木だそうです。樹齢約400年とされています。賀多神社は奈良時代(724年)の聖武天皇のご鎮座と言われ、およそ1300年の歴史を持つ由緒ある神社です。

 

    

 

1〜5は本日の2番目のお寺・常安寺(じょうあんじ)です。常安寺は鳥羽藩主・九鬼氏の菩提寺です。お寺は最初大福寺として建てられましたが(1600年)、九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆の子・九鬼守隆が父の冥福を祈るため、1607年に大福寺を改修し常安寺としました。1は正門で、2は平成5年7月に本堂屋根修復記念として境内に設置されたものです。左の屋根瓦は守隆の代から使用していた九鬼家・家紋の“左三つ巴紋”で、嘉隆の頃は右の“七曜紋”であったと言われています。3は本堂でこの日、扉は閉まっていて中には入れませんでした。ちなみに本尊は釈迦如来坐像で、室町時代の作だそうです。本堂の左手にある山裾を墓地の方向に進むと、坂の途中右側に古い重厚な門が見えてきます。それが4の写真で、門の中は稲垣家(左)・九鬼家(右)の墓所となっています。5は稲垣家の墓所を坂の上から撮ったものです。稲垣氏は鳥羽藩最後の藩主で、菩提寺は金胎寺でしたが境内が狭かったため、常安寺に墓を置く事となったと言われています。鳥羽藩の城主は九鬼氏の後、内藤、土井、松平、板倉と城主が目まぐるしく替わり、最後は稲垣氏が城主を務めています。

 

    

 

1は朝熊山金剛証寺に保存されている九鬼嘉隆の肖像画で、重要文化財に指定されています。2は常安寺の山門前で、左に”明治天皇鳥羽御在所”の石碑と、右に九鬼の石灯籠が建っています。石碑は明治10年に、天皇が常安寺の奥書院に宿泊したのを記念して建てられたものです。また石灯籠は守隆が父の菩提を弔うために寄進したもので、1615年の刻銘は風化して見えにくくなっていますが、市の指定文化財になっています。常安寺にはこの他に、仏涅槃図(安土桃山時代)や薬師堂の鰐口(江戸時代)が市の指定文化財になっています。3は常安寺から天真寺に向かう、途中の4つ辻にあった御木本幸吉(真珠王)生誕地の碑です。横の説明文には<幸吉生家うどん屋『阿波幸』=御木本幸吉は、1858年1月25日にこの地で誕生しました。生家は『阿波幸』という屋号のうどん屋で、近所で評判の繁盛店でした。幸吉は13歳から早朝野菜の行商に出て、昼と夜はうどん屋の手伝いをするという忙しい少年時代をおくりました>と書かれていました。4,5は本日3番目のお寺・天真寺(てんしんじ)です。日蓮宗のお寺で、日蓮上人がお祀りされています。それが5の写真です。

 

    

 

,2は済生寺(さいしょうじ)で、本日4番目のお寺です。京都南禅寺の開祖・法嗣自然居士が、京都行脚の折にこの地に庵を結びました。その後空庵となっていたのを、1680年に伝誉上人が復興し済生寺と改めました。本尊は阿弥陀如来座像で(2の写真)、浄土宗のお寺です。また御木本家の菩提寺ともなっています。3は5番目のお寺・光岳寺(こうかくじ)です。曹洞宗のお寺で、天英山・光岳寺と言います。光岳寺の創建は1644年で、当初は三河国刈屋村にありましたが、1726年に稲垣昭賢が鳥羽藩に入封すると現在地に移され、鳥羽藩主・稲垣家の菩提寺として庇護されるようになりました。堂内には歴代稲垣家の位牌などが安置されています。境内はそれほど広くなく寺のすぐ裏には山が迫っています。なお本堂には朝鮮出兵時に九鬼軍船“日本丸”に設えられた板戸4枚が飾られています。それが4,5の写真で、市の有形文化財となっています。また文豪・江戸川乱歩が深夜座禅を組んだお寺でもあるそうです。

 

    

 

1〜5は本日6番目のお寺で、伊勢西国33所・第6番目札所の金胎寺(こんたいじ)です。金胎寺は鳥羽の高台にあり、本堂の裏手からは市内の家並みや鳥羽湾が眺望できます。1はその本堂への登り口で、2はその先にある納経所です。当寺は昭和40年代にはユースホステルとして利用されていたそうで、建物はその時の名残だそうです。この前の道をさらに登っていくと、3の金胎寺境内に出ます。金胎寺は真言宗高野山派のお寺で、創建は弘法大師が伊勢神宮、金剛証寺参詣の途中鳥羽に立寄り、千手観世音菩薩を刻み本尊にしたと伝わっています(824〜34年)。当初は観音堂として鍋屋崎にありましたが、1573〜92年に九鬼嘉隆が鳥羽城を築いた際、城下町である現在地に移されました。以後鳥羽藩主の祈願所として庇護されてきました。江戸時代には慈眼山(じげんざん)・観音院と称していましたが、明治以降に金胎寺や潮満寺などが合併し慈眼山・金胎寺に寺号を改めています。観音院の本尊は千手観音菩薩で、金胎寺の本尊は大聖不動明王です。それを示しているのが4の写真で、真中に千手観世音菩薩、右側に不動明王が祀られています。写真に写っているのは、当寺に2日前に赴任してきた若い住職で、天幕は稲垣家(鳥羽藩主)の家紋だそうです。残念ながら本堂は平成7年に焼失しています。なお境内には松尾芭蕉の句碑(写真5)と、蒲庵奇石、藤本壷遊の3つの句碑が建っていますが、これは江戸時代に当寺に寄進されたものだそうです。

 

     

 

なお境内の左手からは、四国88所の霊場巡りを体験することが出来ます。それが1〜4の写真で、寺の縁起によると四国の船頭さんが1861〜64年にかけて、海難を祈願して開いたとされています。2,3の写真の様に、小さな祠にはそれぞれ2体の仏様が収まっていて、いわゆる四国88所巡りのミニ版と言ったところでしょうか。4はその傍に祀られていた可愛いお顔の地蔵様です。近年この施設はかなり荒れ果て,見かねた鳥羽の若者約150人が修復に当たり、また元の様に参拝できるようになったとか。現在では88のそれぞれに、市民の担当が決められ管理されているそうですよ。5は境内から見た鳥羽湾の眺望で、6は金胎寺のご朱印です。

 

     

 

1〜6は本日最後のお寺(7番目)西念寺です。西念寺(さいねんじ)は浄土宗のお寺で、創建は孝謙天皇の時代(749年〜)と言われていますが、定かではありません。元は鳥羽城3の丸にあったものを当時の鳥羽藩主・内藤氏が現在地へ移し、菩提寺としたものです。山門の位置が本堂と正対せず、右側に本堂、大庫裡が建っています(写真2)。左側には庚申堂、鐘楼、仏足石、地蔵尊石大座像、千体堂、観音堂と言う珍しい配置のお寺です。3は本堂で、4は本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来立像です。上には西念寺の額縁と豪華な飾り彫刻が見て取れます(写真5)。もちろん内藤家の家紋もありましたよ。6は鐘楼で、鐘楼の鐘の音は機械化されていて、6時、12時、18時になると、自動的に鳴るように設定されています。実は私は当寺に11時50分に到着したのですが、その10分後に、突然鐘の音が鳴り響きびっくりしたものです。住職も係りの人も誰もいないのに?と思い、鐘楼に近付いてみてその仕掛けを見つけました。近代化の波が、こんな小さなお寺まで押し寄せている事に、正直驚きました。それとここでもう1つ面白い事実を発見しました。それは赤穂浪士で有名な浅野内匠頭長矩公の母は、鳥羽藩主である内藤忠勝の実姉にあたり、浅野内匠頭は甥にあたるという事です。しかも浅野内匠頭による“江戸城刃傷事件”の21年前に、内藤忠勝は“増上寺(江戸)刃傷”事件を起こし、忠勝公は切腹しお家は断絶となっているのです。原因は徳川家綱公法要の際の警護で、丹後宮津藩主・永井信濃守尚長公の態度に面目を潰されたと思った忠勝公は、尚長公に切りかかりとどめを刺したというものです。もっと詳しく知りたい方は、松本清張の“増上寺刃傷”をお読み下さい。

 

    

 

開運7寺を巡り終え、“鳥羽・大庄屋かどや(旧廣野家住宅)”にやって来ました。廣野家は屋号をかどや(角屋)と言い、鳥羽随一の財産家で代々藤右衛門を襲名してきました。江戸時代には庄屋の中でも代表格の大庄屋を務め、多額の上納金を藩に収めていた事から名字帯刀が許され、また鳥羽城内には廣野藤右衛門専用の間があったと言われています。江戸時代後期(1810年)になると、6代目が『三僊堂(さんせんどう)』と言う薬舗を創業し、8代目は活嚢舎(かつのうしゃ)と言う名前で、戦前まで営業をしていました。廣野家は飢饉の時には町民に寄付金を与え、また鳥羽小学校建設時には多額の寄付もしたそうです。住宅は平成16年に廣野家から鳥羽市に寄付され、現在は市が管理・運営をしています。1はかどやの全景で、1階の庇部分には薬舗の看板が見えます。2は店舗部分です。3,4はかどやのパンフレットで、5は1階の廊下部分にはめ込まれている色ガラスです。東西棟・西半分の2階部分は1825年の建築で、東半分が1884年(明治17年)までに増改築されています。ステンドグラス風の色ガラスや(写真5)、当時としてはハイカラな洋風トイレ、また京都様式赤壁の客間などがあり、モダンと格式が混じった建築様式となっています。

 

    

 

1はハイカラな陶器のトイレです。2は2階にある京風様式の赤壁の客間です。上の欄間は海を見たてて大きく切り取られ、柱は京風らしく細く上品に設えてあるそうです。3は当時の生活用品が展示されている部屋です。明治10年1月25日、軍艦高雄で横浜から神戸に向かっていた明治天皇は、暴風雨に遭い鳥羽佐多浜沖に緊急入港し、翌日常安寺に宿泊しました。常安寺としては急な事なので、いくつかの品をかどやから借り入れました。その内の1つが“秘蔵沈香製(伽羅)火鉢”で、その時の火鉢がガラスケースに収められ展示されていました。写真を撮りましたが、うまく写っていませんでした。4は明治時代に造られた庭で、右の内蔵は台風や津波に備えて花崗岩の石積基礎の上に建てられています。かって、かどやの東側はすぐ海が迫っていたそうです。この日はここでお茶会が開かれていて、館内は着物を着た若い娘さんで溢れ返っていました。それを見ていたら私も抹茶が飲みたくなり、即、抹茶とわらび餅を注文しました。抹茶の渋みとわらび餅の甘さが、疲れた体の中に一気に染み込んでいきました。5は鳥羽城跡で、かどやを出てJR鳥羽駅へ至る道筋にあります。最初、“地味で目立たない鳥羽のお寺を7寺も巡るなんて”、と思っていましたが、それは私が知らなかっただけで、それらのお寺は由緒のある寺でした。なかなかどうして中身が濃いお寺巡りとなりました。合掌。

                              トップページへ                 記・平成30年6月3日