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ポルトガル紀行・その3 ナザレからリスボンへ

ポルトガル紀行は今回が最終章となります。後で記述しますが、旅行最後(6日目)の午後は自由行動になっていたので、私はリスボン市内を散策することに決めていました。ところが蓋を開けてみてびっくりで、自由行動は私を含めての3人で、後の10名はオプションの“シントラ・ペナン宮観光”に参加するという。自由行動の2人とは、結婚2年目の若い夫婦なので、私は全くの1人でリスボンの街をさ迷わなければなりません。例によって『何とかなるさ』と軽い気持ちでいたのですが、さすがに少し不安になり、前夜ホテルで計画を練り直しました。当初は観光客に大人気の28番の路面電車に乗り、リスボン市内を巡る予定でいました。ところが地元のガイドさんから、「土地に不慣れな女性がその路線に乗るには、安全面で少し問題があるように思います」と言われました。そこで計画を変更し、まずは安全と言われる15番の路面電車でジェロニモス修道院へ行きます。ジェロニモス修道院は午前の観光で訪れますが、外観のみという事なのでもう1度内部をゆっくりと見学します。その後ベレンの塔へ移動し塔内の見学をします。さらに時間に余裕があったら、国立古美術館に寄ってホテルに帰ろうとかと。“地球の歩き方”という案内書に、『ジェロニモス修道院とベレンの塔の共通チケット券を買えば、並ばずに入場が出来るから便利だ』と書いてあったので、事前に地元のガイドさんにチケットを買ってもらうように依頼しました(12ユーロ)。これで少しは安心というものです。この顛末は最終日の項で。それでは前回の続きからスタートします。

 

        

 

6月29日(木)旅行5日目。本日の日程は、ナザレからカルダス・ダ・ライーニャに移動し朝市を見学します。その後“谷間の真珠”と呼ばれるオドビスへと進み、絵のように可愛らしい町を散策します。散策後はこの町でランチを摂り、さらにユーラシア大陸の最西端・ロカ岬を目指します。ロカ岬を堪能した後は今夜の宿泊地・リスボンへとなっています。出発は朝8時45分と少し遅めなので、朝食後ナザレの海岸を歩いてみました。それが2の写真で、砂浜には早朝が故にまだ観光客の姿はなく、押し寄せる波は結構荒いのですが周辺はとても静かでした。遠く半島の先端にはサン・ミゲル要塞が見えます。そう言えば朝食時、「夜中の3時頃にボヤ騒ぎがあり、消防車が何台も来て喧しかった」と誰かが言っていましたが、私は熟睡していたのか?ちっとも気がつきませんでした。今朝の気温23℃、天候は晴れ。ナザレからカルダス・ダ・ライーニャまでは約35qで、時間にして35分で到着しました。カルダス・ダ・ライーニャはオドビスの北に位置する町で、人口2万人ほどの小さな町です。『王妃の湯治場』という意味を持ち、ジョアン2世の王妃レオノールがここで泉に浸かる人々を見て、自分も入ってみたところリウマチの痛みが軽減したことからこの地に療養所を作ったそうです。また町はボロダロの陶器も有名で、陶器屋の店先にはキャベツの葉など野菜をかたどった陶器がたくさん並んでいます。それが3の写真で、1884年にラファエロ・ボロダロ・ペニェイロがここに窯を開いたのが始まりとされています。4は町のマップで、5〜7はレプブリカ広場で開かれている朝市です。朝市はポルタ・ダ・ヴィラと呼ばれ、この町の台所的な役割をしています。近郊の村々から運ばれてきた野菜や果物を中心に、チーズやナッツ、果ては雑貨まで並んでいました。市場の石畳には1883年のモザイク文字が描かれていた事から、その年に市場が創設されたのでしょうね。歴史がある市場なのですね。私はこの市場で数種類のナッツとドライフルーツを旦那の土産用にゲットしました。

 

     

 

,2は先ほどの市場から5〜6分歩いたところにある魚市場です。さすが一辺が海に面している国だけあって、魚の種類は豊富です。しかし訪れた時間が9時30分と遅かったので、大半が店じまいをしていたのは残念でした。3の左の建物は1485年にレオノール王妃が建てた鉱泉病院です。奥は病院博物館で、右に進むとドン・カルロス1世公園に行きます。4は鉱泉病院の裏にある時計塔です。昔は鐘が時を告げていましたが、後世になると時計がその役割を担うようになり、時計はその時に取り付けたられたものです。しかし残念なことに今はその時計は動いていません。5はドン・カルロス1世公園前に建っている図書館跡です。重厚な石造りの建物は歴史を感じさせます。6はドン・カルロス1世公園で、もとは鉱泉病院付属の森だったそうです。公園内には白鳥が泳ぐ池や美術館、音楽堂やテニスコートもあるそうです。バスはこの近くで停車し、ここから歩いて朝市に訪れたのです。

 

     

 

朝市の見学も終わり次の訪問地・オドビスまで、バスは15分(約9q)で到着しました。町の周囲を城壁で囲まれたオドビスは、人口800人ほどの小さな町です。町は中世の頃は王族の休息地でしたが、1282年に時の国王ディニス王がスペインから嫁いできた王妃イザベルに、婚姻の贈り物としてこの町をプレゼントしました。故にこの町は1834年まで、ポルトガル歴代王妃の直轄地となっています。ディニス王とは前回でも書きましたが、リスボンにコインブラ大学の前身の学校を創設した王です。1は町のマップで、2は6つある城門の1つポルタ・ダ・ヴィラ(西門)です。イスラム時代に造られたオドビスのメインゲートです。門は敵の侵入を防ぐため2重のジグザク構造になっていて、3が最初の通路です。中は町の聖人、聖ピエダデに捧げられた礼拝所になっていて、壁は聖書の1場面をモチーフとしたアズレージョで覆われています。4はその次の通路で、現在は観光客向け用の撮影スポットとなっていました。仮面を被った鳥人は城を守る傭兵なのでしょうか?。門を抜けるとすぐ左側に城壁に上がる階段があります。5は階段を上がった先から見たオドビスの町並みです。左は南側の城壁で手前の丸屋根はサン・ペドロ教会、三角形の白い塔はサンタ・マリア教会です。そして奥が城跡(15世紀に築城)で、城跡は改装され現在は国営ホテル(ポサーダ・ド・カステロ)になっています。6は子供たちの笑顔があまりにも可愛いので、撮らせてもらった写真です。

 

      

 

町を囲む城壁は14世紀に造営されたもので、高さ13m、全長は1565mもあります。本当は城壁の上を1周してみたかったのですが、時間の関係上西側だけ少し歩いてみました。2は町の西はずれの城壁の塔です。3はその塔の窓から覗いた景色です。たぶんこの窓は敵を監視したり、また鉄砲を撃つための窓だったのではないでしょうか?。階段も城壁も狭くおまけに手摺りもありません。さすがにこの塔に登った時は少し緊張しました。そこから降りて今度は町の散策です。町は何本かの狭い石畳の道と、民家、教会、広場がこぢんまりとまとまっています。4は町のメインストリート・ディレイタ通りです。オドビスの家は壁の下が青や黄色で塗られていますが、これは町の旗にこの2色が使われているからだそうです。5はこの町の特産、ジンジーニャと呼ばれるサクランボを漬け込んだ果実酒です。アルコール度数は1820%で1杯1ユーロです。右側のチョコレートで出来たカップに入れて飲むようですが、飲んだ後はそのチョコレートは食べてしまいます。良い香りがしていたので、アルコールがいけたらきっと喜んで飲でいた事でしょうね。6は白とブルーの壁にブーゲンビリアの紫が映え、とてもきれいな路地です。その中を歩いて行くと、7のサン・ペドロ教会に出ます。教会は1755年のリスボン大地震で崩壊し、ゴシック様式だった建物はすっきりした外観に再建されました。

 

     

 

内部も外観と同じくアズレージョなどの飾りもなく、質素な落ちついた雰囲気の教会でした(写真1)。2〜5はサンタ・マリア教会で、サン・ペドロ教会とは目と鼻の先にあります。町のほぼ中央にあるこの教会は、西ゴート族のモスクの跡だった場所に建てられています。1444年に10歳のアフォンソ5世が、わずか8歳の従妹イザベラと結婚式を挙げた教会です。内部の壁は全面が、唐草模様が描かれたアズレージョで埋め尽くされています。また壁の上には17世紀の女流画家、ジョゼファ・デ・オビドスの絵が掛けられています。それが4の写真です。5は内陣にある石棺で、ルネッサンスを代表する彫刻家・ニコラ・シャントレーヌの作です。石棺の中にはオドビスの市長ジョアン・デ・ノローニャと、妻のイザベラ・デ・ソウザが眠っています。6は教会の前にあるサンタ・マリア広場に建っているペロリーニョ(罪人のさらし柱)です。教会の隣は市庁舎だったため、権威の象徴として建てられたもので、罪人は見せしめのためカゴに入れられてここに吊り下げられたそうです。柱の中ほどにある窪みは、吊り下げた時の金属の跡です。また柱頭の網目模様は、テージョ川で水死した王子を偲び母の王妃が、遺体を引き上げた漁師の網を柱に刻ませたものです。

     

 

1はサンチャアゴ教会で、城跡へ入る門の左側に建っています。教会としての役割を終え、現在は本を売る書店となっていました。それが2の写真です。サンチャアゴ教会を出ると前の路地から、何か特異な音楽が私の耳に流れてきました。その音色に引き寄せられるように立った先が、3の写真です。ポルトガルの民族楽器かと思いきや、身振り手振りで聞き及んだ所、それはペルシャの楽器でサントールと呼ばれる楽器だそうです。なぜここでペルシャの楽器を?と、思わずにはいられませんでしたが、その理由を聞きだす語学を私は持ち合わせてはいません。でもとても心に染み入る音楽で、今でもあの音色を思い出すと、心が豊かになります。私が立ち去ろうとすると、彼は私に楽器を触らせ弦を弾かせてくれました。私はニッコリ笑い彼に少し多めのチップをはずみました。4は教会横の城門をくぐった先にある、ポサーダ・ド・カステロ(国営ホテル)です。15世紀のお城を改装したもので、部屋数はわずか9室しかないそうですよ。5はサンチャアゴ教会前にある3つ辻で、この可愛い建物はカーサ・デ・サンチャアゴ・ホテルです。アンティークな調度品に囲まれた館内は、まるで邸宅に招かれたような気分になるそうですよ。町はこの時期、色とりどりの花々で包まれとても華やかでした。お昼は城壁の外にあり、それもバス停からすぐ近くの、ジョゼファ・ド・オルビス・ホテルで(写真6)、ポタージュスープとポークとアサリのオレンジソースかけを頂きました。とても上品な味に満足し、さぁ〜ロカ岬を目指してバスは出発しました。

     

 

オドビスからロカ岬までは約116q、時間にして1時間45分の道のりです。ユーラシア大陸の最西端にあるロカ岬は、北緯38度47分、西経9度30分の位置にあります。そして高さ140mの断崖の上には、ポルトガルの詩人・カモンスイが詠んだ詩の1節を刻んだ石碑が建っています(写真1)。その詩文が2で、『Onde a terra acaba e o mar começa ここに地果て、海始まる』の文字が刻まれています。やはり最西端だけあって、大西洋から吹きあがってくる風は生半可なものではなく、写真のようにジャケットとフードで身を包んでいても、激しい風は容赦なく私を襲ってきました。3は左に灯台、道を挟んで右に観光案内所とレストランが写っていますが、観光案内所では希望者に最西端到達証明書を発行しています。名前と日付を書き入れて料金は11ユーロでした。帰国してから先は無用のものとなるので、私は購入しませんでした。先ほどの石碑から左側の道を下っていくと、4の展望台に出ます。ここから見た風景が、本物のユーラシア大陸最西端の景色です(写真5)。6は断崖絶壁に打ち寄せる大西洋の荒波です。東をスペインに抑えられ、西に行くしかなかったポルトガル人。故に彼らは勇気を振り絞ってまでも、厳しい海に乗り出さずにはいられなかったのでしょう。どうもそれが大航海時代の始まりだったような気がします。そう思うと、なんか寂寥としたものが胸にこみ上げてきました。ここから今夜の宿(リスボン Vip グランド)までは約41qです。

 

      

 

6月30日(金)旅行6日目。本日の日程は午前中リスボン市内を巡り、その後リベイラ市場で昼食を摂った後は各自自由行動となっています。朝の気温27℃、空は抜けるような青空が広がっています。さぁ〜今日も元気で参りましょう。ホテルを9時に出発し、まずはベレンの塔と発見のモニュメントの見学です。1はリスボンの市内地図で、2は発見のモニュメントがある広場に展示されていた飛行機のオブジェです。このオブジェは1922年にリスボンからブラジルのリオ・デ・ジャネイロまで、単独飛行8383qに成功した飛行士の功績を称えて設置されたものです。レプリカですが本物と同じ大きさで、飛行時間は約62時間半ほどだったそうです。3はベレンの塔ですが、自由行動で再訪するのでその時に詳しく記述します。3〜5は発見のモニュメントです。1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して造られたもので、大海へ乗り出す当時の勇壮な人物が配されています。記念碑は高さ52mのコンクリート製で(有料のエレベーターで屋上に上がることが出来る)、カラベル船の船首に似せたデザインとなっています。また正面の石畳には、ポルトガル人が辿った世界地図が描かれていて、そこには彼らが到達した年が記されています。このモザイクは1960年に南アフリカ共和国から贈呈されたものです(写真5)。日本の場合、ポルトガル人が種子島に漂着した1543年ではなく、ポルトガル船が豊後に漂着した1541年が記述されています。それが6の写真です。

 

      

 

1はテージョ川に向かって建っているモニュメントで、カラベル船の上にはポルトガル国旗が刻まれています。そして両側にはカラベル船を持つエンリケ航海王子をトップに、同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・航海士・宣教師ら総勢30名のポルトガル人の像がありました。2はその像を説明したものです。日本でもおなじみのフランシスコ・ザビエルやマゼランなどの名前もあり、彼らが教科書に載っていた人物かと思うと親しみが湧いてきました。3は反対側(西側)にある像で、左から2番目は唯一の女性像で、ジョアン1世の王妃でエンリケ航海王子の母です。ちなみに左端はエンリケ航海王子の兄で、右端(王子に膝をついている人物)は弟です。この後ジェロニモス修道院を見学するのですが、それは自由行動の項で述べます。4〜6は修道院のすぐ近くにあるパスティス・デ・ベレンです。ポルトガルで一番おいしいエッグタルト(ナタ)を食べたいのなら、ベレンへ行くべしと言われているお店です(写真4)。1837年創業の老舗でジェロニモス修道院から伝えられたレシピを、今も堅くなに守り通しているそうです。表面に焦げ色が付いたパイは、400度という高温で短時間で焼かれるので、中はトロリで外はパリパリの食感です(写真5)。好みで砂糖とシナモンをふりかけて食べます。人気のお店なので店内はいつも大混雑しています。で、添乗員さんが全員分のナタをまとめて買ってくれました(写真6)。確か1個1ユーロだったように思いますが。それをお店の前で皆で頂きました。噂に違わず、本当に美味しかったよ!。バスはこの後ロシオ広場に移動しました。7はその広場から歩いてすぐのアウグスタ通り(歩行者天国)です。遠くに見えているのは勝利の門(アーチ)です。

 

       

 

1はロシオ広場(公共の広場という意味)で、前はマリア2世国立劇場です。正式にはドン・ペドロ4世広場と言い、中央にペドロ4世のブロンズ像が建っています。バスをここで降り、私たちは旧市街地を散策しました。2は広場からすぐ近くにあるサンタ・ジェスタのエレベーターです。20世紀初頭にエッフェルの弟子によって造られたもので、高さは45mもあり街が一望できるそうです。故に乗ってみたかったのですが、長い行列が出来ていたのであきらめました。3はリスボンの石畳です。白と黒が用いられていますが、これはリスボンの守護聖人サン・ヴィセンテが、1173年に2羽のカラスに守られてリスボンに運ばれたことに基づくそうです。死とカラスは黒、白はヴィセンテの純粋性を象徴しているそうです。この様に市内の石畳はどこをあるいてもステキでした。4は1890年に建てられたロシオ駅です。ネオ・マヌエル様式の建物は、入口が2つの蹄鉄をかたどった特徴的な造りで人目を惹いていました。5はその近くを走っているグロリア線のケーブルーカーです。リスボンは7つの丘の街で、高い地区と低い地区を結ぶ3路線のケーブルが走っています。6はロシオ駅の先にあるレスタウラドーレス広場です。16世紀からスペインに支配されてきた民衆が、1640年ついに蜂起し勝利を勝ち取った記念の広場です。レスタウラドーレスとは『復興者たち』と言う意味で、広場の中央には勝利と独立の精神を表すオベリスクが建っていました(高さ30m)。

 

     

 

市内散策の後私たちはカイス・ド・ソドレ駅に移動し、その近くにあるリベイラ市場で食事を摂りました。ここは100年以上の歴史がある市場を改装し、各国のグルメやフードコート、それに土産物や新鮮野菜まで売っているおしゃれな市場です。店内は広くて地元民や観光客で溢れ返っていました(写真1)。グズグズしていると食事にありつけないので、私は早くて簡単なバーガーセットをチョイスしました。食事後は自由行動の開始です。まずはカイス・ド・ソドレ駅から15番のトラム(路面電車)に乗り、ジェロニモス修道院へ。切符は車内で買えるという事で挑戦しましたが、何度試してみてもうまくいきません。見かねた乗客が助け舟を出してくれ、無事ジェロニモス修道院前で降りることが出来ました。2は乗ってきたトラムです。3〜6はジェロニモス修道院です。ジェロニモス修道院はエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業をたたえ、また航海の安全を祈願してマヌエル1世が1502年に着工したものです。海外からもたらされた富をつぎ込んで、約1世をかけて完成にこぎつけました。3の中央の塔の右側は、サンタ・マリア教会(ジェロニモス修道院付属)の正門(南門)です。この日は修復中だったので、その見事な彫刻を見ることは叶いませんでした。ゆえに4〜6はネットから拝借したものです。1584年に天正遣欧少年使節団がここを訪れ、あまりの壮麗さに驚いたと記されています。入口中央の柱にはエンリケ航海王の像が据えられ(写真5)、上にはイエス・キリストを抱く聖母マリア像を中心に、それを囲むように24人の聖人が配置されているそうです(写真6)。

 

     

 

1は入館口で中央の塔の左側にあります。右の扉の先がサンタ・マリア教会で、左の扉は修道院に向かいます。午前は右で、午後からは左の扉から入りました。2はサンタ・マリア教会の西門正面の扉です。1の写真では向かってすぐの右の扉に当たります。門の左脇には祈りをささげるマヌエル1世が、右脇にはジョアン3世の母である王妃マリアの像。そして上部のレリーフには、左から『受胎告知』 『キリストの降誕』 『東方三博士の来訪』の3シーンが描かれています。とても見事です。3はガイドブックに載っていた教会と修道院の見取り図です。右の扉から中に入ると両脇には石棺が置かれていて、左の石棺はポルトガルの詩人・カモンイスのものです(写真4)。真ん中に筆と竪琴のマークが彫られています。右側の棺はインド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマです(写真5)。棺にはカラベル船や、インドからもたらされたコショウの実の模様や植物が彫られています。6は内陣で海洋をモチーフとした天井はとても高く、また支柱はヤシの木を表しているそうです。新航路で見た南の国のヤシの木という事でした。前方は礼拝堂となっていて、背後には宮廷画家・ローレンソのキリストの生涯を描いた5枚の絵が飾られています。

 

     

 

それが1の写真です。2は南側にあるイエスを膝に乗せた、マリア様のステンドグラスです。次からはジェロニモス修道院になります(午後からの見学部分)。3は回廊部分で、回廊は修道士の祈りと瞑想のための空間だったという。石灰岩で出来た回廊はどこを見ても美しい装飾彫刻が施され、ここにもマヌエル様式をうかがわせる船のロープやコショウの実、大きな貝殻などのモチーフが多用され、いつまで見ていても飽きませんでした(写真4)。しかしそうもいかず、先へと進みました。5は回廊北西角にある『獅子の泉』で、そこにはライオンが立ち上がった像があり、道士たちの手洗い場となっていた所です。6は2階から見た55m四方の中庭です。建物は1階がフランス人建築家・ボイックで、2階は彼の死後を引き継いだスペインのジョアン・デ・カスティーリョが手がけたものです。作風が微妙に違うようですが、私にはその違いが判りませんでした。いずれもマヌエル様式の最高傑作と言われています。

 

      

 

1は奥行き50mほどの食堂で、壁面下は18世紀のアズレージョです。北側の壁にはジェロニモスの肖像画が掲げられていますが、それが2の写真です。肖像の下にはライオンが描かれています。聖ジェロニモスとは聖ヒエロニムスのことで、ラテン語を勉強して聖書を訳し、世間に聖書を広めた人物です。彼が描かれた絵には必ずライオンが登場しますが、それはトゲが刺さったライオンを助け、ライオンはその後彼の側を離れることはなかったという、伝説からくるものです。『獅子の泉』のライオンもその類だそうです。3は西門の上にあり、そこの聖歌隊席から見た磔刑のキリスト像です。その奥に見えているのは、先ほど見たサンタ・マリア教会の礼拝堂です(写真4)。さすが世界遺産だけあって見どころ満載の修道院でした。これでジェロニモス修道院の見学は終り、ベレンの塔へと移動しました。5は途中で見た『4月25日橋』で、1966年に開通した全長2277mのつり橋です。上段は車、下段は鉄道専用です。当初はこの橋を建設した独裁者の名前・サラザール橋と呼ばれていましたが、4月25日に革命がおこり新政府が誕生したので、その記念に改名されたものです。左には発見のモニュメント、右には高さ110mのクリスト・レイ(キリスト像)が見えます。修道院からベレンの塔へ行くには、見えているのに歩くと結構な距離がありました。6はベレンの塔で、午前中は潮が満ちた状態でしたが今は砂浜が見えています。7は塔への入口で、つり橋となっていました。

 

     

 

1はそのつり橋を上から見たものです。午前中より見学者が多く、入館するのに20〜30分も待たされました。ベレンの塔はマヌエル1世の命により、1515年に着工し1520年に完成しました。もとはテージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として造られたものですが、後に船の通関手続きを行う税関や灯台の役目も果すようになりました。2は堡塁で一番下は海水が入り込む水牢で、潮の干満差を利用して時間帯により水が入り込む仕掛けだったそうです。水牢の上には火薬庫があり、さらにその上は大砲が並ぶ砲台となっています。大砲は1つではなく、あらゆる方向に配置されていました。3は1階司令官の間の窓下にある排水溝です。サイの頭を模ったもので、1513年にマヌエル1世はインドからサイを輸入し、それをローマ皇帝に贈ったそうです。3はそれを記念して造ったもので、その様子が塔内の壁に記録されていました(写真4)。5は3階にある謁見の間で(公式の対面所)、6は4階の礼拝の間です。ベレンの塔の2階から4階までは王族の居室だったそうで、内装は簡素ですが格調の高いものがありました。

 

     

 

1はテラス部分にある聖母マリア像です。像の後ろの壁面(塔)には、マヌエル1世の紋章が施されているのが見えます。大航海時代ポルトガルの船はベレンの塔を見ながら大海原に漕ぎ出し、船乗りたちはこの像に向かって航海の安全を祈ったそうですよ。2は3階から見たテラス部分で、塔の先端の丸いものは胡椒の実を模ったものです。胡椒は土地のやせた寒いヨーロッパでは育てられず、海のかなたインドでしか採れなかった貴重なものです。大航海時代は胡椒をはじめとする香辛料の獲得という、もう1つの大きな目的があり、持ち帰った数々の香辛料は仕入れ値の60倍の値段で売られたそうです。これがポルトガルに巨額の利益をもたらしたのです。3は屋上への階段で、出入りは1か所しかなくそれも狭い一方通行の螺旋階段でした。4は屋上で塔の赤いランプは、人が通行しているからしばらくお待ちくださいの合図です。5はその屋上から見たリスボンの街並みです。現在時刻は17時過ぎです。当初計画していた国立古美術館は時間も遅いのでパスし、このままホテルに帰ることにしました。帰路ベレンから15番のトラム乗り場まで歩きましたが、着いた駅はどうも雰囲気が違うようです。また手ぶりで問うてみると、1つ先の駅に来てしまったようです。でも目的の駅に行く事が解りホッとしました。行きと同じくまた車内の券売機を利用しましたが、今度もうまくいきません。見かねた乗客が私の持っているユーロ札が、券売機に反応しないのではないか?と、自分のユーロ札と交換しそれを機械に挿入しましたが、何度やってもお札が戻って来るばかりで、チケットは出てきません。そのうち周りの乗客たちは、「ノープロブレム」と口々に言いだし、私にニッコリと微笑みました。どうもこれは、そのまま降りろという事だ、と解釈した私は無賃乗車(2,9ユーロ分)を決行しました。周りの乗客は皆フリー切符やパスを持っていて、私のように券売機を利用する人は皆無の様です。故に器械が壊れていても誰も意に介さないのでしょうね。私がトラムを降りると、周りの乗客は「無事に行きなさい」とでも言っているかのように、私に手を振ってくれました。心優しいリスボンの皆さま、その節はお世話になりました。6は地下鉄カイス・ド・ソドレ駅の構内です。本当はこの駅からホテルの最寄り駅、カンポ・ベケーノまで行く予定だったのですが、それには2つの駅で乗り換えなければなりません。またトラブルを起こしそうな予感がしたので、迷った挙句タクシーで行くことにしました。タクシー代9ユーロで、18時40分に無事ホテルに到着することが出来ました。夕食は20時からなので、それまでホテルの近くにあるショッピンセンターで最後の買い物をすませました。

 

7月1日(土)旅行最終日。本日は帰国日です。左の写真は昨夜訪れたショッピングセンターです。建物は1892年に造られた闘牛場で、地下がショッピングセンターになっていました。まずは午前4時30分発のルフトハンザ機でリスボンからフランクフルトに向かいました。そこから13時40分の便に乗り換え、セントレアには翌日の午前8時20分の到着予定でした。ところが機に乗ってから2時間が経過した頃、機内にアナウンスが入りました。「当機は水タンクのトラブルにより、これよりフランクフルトに引き返します」と。これでトイレの前が、水浸しになっていた謎が解けました。ルフトハンザ機は空中に40〜50分間程燃料を放出した後、フランクフルトに帰りました。この操作はなるべく機が軽い方が着陸のリスクが減る。または着陸に失敗した時の火災のリスクを減らすなどの理由によるものだそうです。初めて知り得た事でした。窓際の乗客いわく「機体の後部から、真っ白な霧状の物が噴射されていてびっくりした」と。結局機の修理は適わず、機は8時間遅れの21時10分に新機で飛び立ちました。セントレアには翌日(7月2日)の15時に到着。機を降りると梅雨特有のモヮ〜とした湿気が私を襲ってきました。日本に帰ってきたことを実感した瞬間でした。                                             記・平成29年12月10日

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