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出雲への旅その3・玉造温泉から出雲大社へ

出雲への旅も今回が最終章となります。1日目は憧れの足立美術館を訪れ、2日目は雨に降られはしましたが、水木しげるロードと桜が美しい松江城に行って来ました。後は3日目の出雲大社の参拝を残すのみです。前回は2日目の玉造温泉に到着した所で、アルバムは終了しました。なので、今回は宿到着後の様子からスタートしたいと思います。

 

    

 

宿(松乃湯)へは4月4日の16:00に到着しました。外はどしゃ降りの雨が降っています。これでは温泉街の散策も気が削がれます。でも気を取り直し、30分ぐらい部屋で休んだ後、やはり町の散策に出かける事にしました。1は温泉街の風景で、町の中心を流れているのが玉湯川です。旅館はその川の左右に立ち並び、各旅館の前には必ず橋が架かっています。それはどの場所にいても、引きか返すことなく橋の向こう側へ行けるようにとの配慮からです。温泉街の始まりから終わりまで、約16本の橋が玉湯川にかかっているそうです。2はガイドマップで、3は勾玉橋とその端のたもとに佇んでいる佐太大神(さだおおかみ)誕生神話のオブジェです。玉湯川沿いには出雲神話をモチーフにしたオブジェが9つ置かれ、その下には説明文も書かれています。オブジェを見て歩くだけでも、散策に出る価値はあると思いました。4は三種の神器のオブジェです。大国主命が右手に草薙の剣と左手に八坂瓊曲を持ち、スセリヒメが八咫鏡を両手に掲げている場面です。5は川床に造られた足湯です。雨が降っていなかったら、この足湯に浸かりのんびりと旅の疲れを癒すことが出来たでしょう。残念です。

 

    

 

1は無料の源泉が汲める施設で、それは湯薬師広場にありました。勾玉が乗ったたらい湯の中には、源泉がこんこんと溢れ出しています。それを隣のボックスから取り出したペットボトル(200円)に入れて、化粧水として持ち帰るのだそうです。ただし5日で使い切る事が条件だそうです。玉造の湯は無色透明で、ぬめりや匂いが無くさらさらです。一見するとただのお湯のようですが、泉質を化学的に分析すると肌をみずみずしくする『硫酸イオン』が多く含まれ、まるで化粧水の様と言う結果が出たそうです。2はその近くにある湯薬師堂で、中には薬師如来が祀られています。薬師堂に釣り下がっている半鐘は、終戦前後に隠岐の島に渡り消防の半鐘として使われていましたが、2000年5月に玉造に返還されたと説明書きがされていました。3は湯薬師堂の境内に建っている地蔵菩薩です。<広島に原爆が投下された直後、広島第1陸軍病院の分院があった玉造温泉街に、被爆兵約200人が貨物列車で移送されて来ました。なかには手の施しようもない人もいて、治療しても甲斐なく亡くなった人が大勢出ました。終戦60年の2005年に『せめてその人たちの供養をしたい』と、地元住民が地蔵菩薩の建立計画をスタートさせ、2011年10月5日に開眼の法要が行われました>と、石碑には書かれていました。この様な歴史があったとは驚きでした。改めて南無阿弥陀仏!。4はそこから山側に登った先にある玉作湯神社で、左側に社務所があります。祭神は玉作りの神様・櫛明玉神(くしあかるたまのみこと)と、玉造温泉を発見した大名持命と小彦名命です。5は拝殿の後ろに建つ本殿です。

 

     

 

この神社では境内の奥の願い石に、社務所で授かった叶い石を重ね合わせて祈ると、願い事が叶うと言われています。私たちも早速社務所でその叶い石のセットを買いました(600円)。セットの中にはお守り袋と、叶い石、それに2枚複写になった願い札が入っています。それが1の写真で、私の叶い石は赤いメノウでした。ちなみに叶い石は小さな天然石で、メノウ、アメジスト、ローズクオーツなどです。そのセットを持って奥の石段を上がると拝殿(写真3)が見えてきます。ここでは、まずは参拝の挨拶をします。その後拝殿の奥にある湯山主之大神の下へ。それが4の写真で、柄杓を手に取り叶い石を清めます。清めた叶い石を願い石(真ん中の丸い石)に擦りつけ、パワーを頂きます。この時に願い事を心の中で唱えお祈りをします。最後に願い札に住所、氏名、願い事を記入してから、拝殿にある投函箱に入れて終了です。複写のもう1枚は叶い石と共に、お守り袋に入れて家に持ち帰ります。写真2が一連の作法を示したものです。私は世界平和と、旦那と私とダークの健康を願ってきました。5は宿の目の前にある玉造温泉・ゆ〜ゆでの、どじょうすくいショーです。そこでは毎晩(20時30分から30分間)民謡とどじょうすくいショーが開かれ、予約なしに誰でも鑑賞ができるそうです。宿から近いし料金(500円も)も手ごろなので、行ってみることにしました。

 

     

 

前半は民謡と踊り、後半はどじょうすくいショーでした。そしてショーの最後に、「舞台の上でどじょうすくいを踊ってみませんか?私が伝授しますから」と主催者からの誘いがあり、私と後2人が手を挙げました。まず客席から3人が舞台に上がります。そして準備として頭に手ぬぐいを被せられ、鼻には一文銭の鼻あてを、手にはザル、腰には魚籠を取り付けられます。これで準備完了です。その後師匠の後に続いて、師匠の動作を真似ていきます。1がその解説書です。2回ほど手ほどきを受けて、いよいよ皆の前で披露です。私は精一杯踊りました。演技終了後は皆でニッコリ笑って記念写真を撮りました。それが2の写真で、1度どじょうすくいを踊ってみたかった私としては、とても満足した顔をして写っていると思いませんか?。『旅の恥はかき捨て』です。3はその時に頂いた終了証書です。4は松乃湯の夕食です。例によって数多くの品が出され、カニはすべて友に供出しました。5は松乃湯の浴衣で、ちょっと活きな浴衣にこれもまた満足ものでした。6は旅館の庭先に咲いていた利休梅(りきゅうばい)です。利久梅と書かれたものもありますが、千利休とは関係ないそうです。バラ科の植物で白い清楚な花が5弁咲きます。珍しい花だったので思わずパチリです。本日2日目の全歩行数・19643歩でした。

 

      

 

4月5日(木)旅行3日目。本日の行程は玉造温泉出雲大社(団体祈祷後、神門通りの自由散策・約3時間滞在)いずも観光センターでの昼食(出雲そば)お菓子の壽城岡山駅(18:23分発・ひかり482号)名古屋(20:34分)となっています。今日の天候は曇空で気温は18、少し肌寒く持って来たダウンジャケットを着ました。バスは右側に宍道湖を望みながら(写真2)、出雲大社へと走ります。伝統のシジミ漁は、月、火、木、金の午前中に出漁するそうですが、本日は湖面を吹く風が強くシジミ取りの舟は見当たりませんでした。期待していただけに少しガッカリしました。3は築地松(ついじまつ)と言い、水害から家屋を守るために植えられたものです。周りより少し高く土を盛り、そこへ根をよく張る松が植えられています。そして家の前には屋敷荒神(宅地内におまつりした神様)が祀られています。4は斐伊川(ひいかわ)で、島根県の中国山地を水源とし、出雲平野を流れて宍道湖に注ぐ全長153kmの1級河川です。上流は古くは簸川(ひのかわ)とよばれ、八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の舞台となった所です。古代からたびたび氾濫を繰り返し、おそれられた斐伊川がオロチの正体で、その氾濫で被害を受けたのがクシナダヒメ・すなわち田畑で、それを退治したのがスサノウノミコト・すなわち地元民と言う構図だそうです。こうしてみると出雲神話とは、なかなかよく出来た物語なのですね。5は一面の菜の花畑で、新緑の山裾にどこまでも黄色の絨毯が続いていました。

 

    

 

右前方に宇迦橋(うがばし)と、その袂に建っている一の鳥居が見えてきました(写真1)。正式な参拝はこの鳥居から神門通りに入り、そこから二の鳥居(勢溜の大鳥居)をくぐって拝殿へ、となっていますが、駐車場の関係から私たちは四の鳥居から拝殿に向かう事になりました。2は1924年(大正13年)建造の旧国鉄の大社駅です。1912年(明治45年)の開業から1990年のJR大社線の廃止まで、出雲大社参拝の玄関口でした。和風建築様式を取り入れた格調ある木造建築は、大正ロマンを感じさせるもので、駅舎とホームは当時のままに残されています。2は車窓から撮ったもので、本当はバスを降りてもっと近くで見たかった!3は出雲大社境内にあるおくにかえり会館です。まずはここから団体祈祷の受付がある庁舎(ちょうのや)に向かいます。会館に掲げられている国旗掲揚塔は高さ47mで、国旗の大きさは畳75畳分もあるそうですよ。そんなに大きくは見えないですよね。4は境内マップで、5はその前にある神楽殿です。ここで神楽や祈祷、または結婚式などが行われます。正面に掛かる注連縄は長さ13m、太さ8m、重さ4,5トンで、内部の大広間は実に畳270畳もあるそうですよ。

 

    

 

1は四の鳥居(銅鳥居)で、1666年に毛利輝元の孫・綱広が寄進したもので青銅製です。その奥に拝殿が建っています。私たちは庁舎で約30分待たされた後、2の拝殿に移動しました。ここで団体祈祷を受け、神職よりお神酒とお守りを授与されました。お神酒を注いだ入れ物(器・カワラケ)は各自持ち帰ることが出来ます。これで祈祷は終了したと思いきや、最後は拝殿の後ろにある八足門(やつあしもん)をくぐり、さらに先にある桜門まで神職に誘導されました。一般の参拝は八足門からなので、私は大いに感謝感激し、桜門から丁寧に参拝いたしました。神社の参拝はふつう2拝,2拍手,1拝ですが、出雲大社は2拝,4拍手,1拝をします。3は八足門で、推定江戸時代中頃に造られ、三間一戸八脚から成っています。これが八足門(八脚)の由来だそうです。また神紋は『二重亀甲に剣花菱』で、出雲大社宮司である出雲国造家の紋章でもあります。4は前から順に八足門とその奥に桜門、そして本殿(3角屋根の建物)、その右には東回廊と観祭楼が見えます。5は八足門の前に印された巨大本殿・宇豆柱(うづばしら)発掘の跡です。平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。これはそのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱と呼ばれてきたものです。

 

    

 

1は古代本殿の心御柱を再現したもので、神殿(しんこでん・宝物館)の前にあります。出雲大社(いずもおおやしろ)は、『古事記』にその創建が記されているほどの古社で、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が高天原の天照大神に国を譲り、その時出した条件で造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が、出雲大社の始まりといわれています。以降天照大神は顕事(目に見える世界)を、大国主大神は幽事(目に見えない世界)を司ることになりました。2はその天日隅宮を再現したもので、高さ48m、階段の長さは実に109mもあったそうで、2は10分の1に造られた模型です。団体祈祷後は各自自由行動となったので、私たちは境内の周りを一周することにしました。と言うのは御神座は西向きで、本殿の正面から参拝すると、神様の横顔を拝んでいる事になります。なので、まずは西19社の方向へ移動しました。3は素鵞社揺拝所の前にある参拝所です。4はそこで撮ったものですが、横の看板に<まずは本殿正面で参拝の後、端垣に沿って摂末社を参拝され、御神座正面にあたるこの場所より再度心をこめ参礼なさいませ>と書かれていました。5がその看板ですが、御神座が西向きである理由を調べた所、諸説あるようです。本殿の北にある素鵞社(スサノウノミコト・父)にお尻を向けてはいけない、または八百万の神々がやって来る稲佐の浜(西にある)を見ている等です。

 

    

 

1は東19社方角から見た本殿(右の建物)です。手前から天前社(火傷を負った大国主大神を助けた2柱の女神)と、その向こうに御向社(大国主大神の正妻・スセリヒメミコト)が見えます。本殿は大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式で、現在の本殿は1744年に造営され、昭和27年に国宝に指定されています。高さは約24mで厚い桧皮葺きの屋根の棟の上には、長さ7,9mの2組の千木が交差し、3本の鰹木が乗っています。大社造りの特徴は高床式で床面が正方形、社殿は9本の太い柱によって支えら、中央には心御柱があります。2は北側から見た(裏側)本殿で、因幡の素兎が本殿を見守っています。裏から見ると本殿がよく見え、簡素な大社造りが目の前に迫ってきました。3は同じく北側にある素鵞社(そがのやしろ)で、本殿後方の1段高い所にありました。大国主大神の親神(スサノウノミコト)で、大神に国づくりの大任を授けています。また八岐大蛇を退治した神様でもあります。4は釜社(かまのやしろ)と東19社です。釜社の祭神は宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)で、食物全般を司っています。スサノウノミコトの子供でもあります。19社の祭神は八百萬神(やおよろずのかみ)で、神在祭の間(旧暦10月11日〜17日)、集われた全国各地の神々の宿所となる社です。通常は全国各地の神々の遙拝所となっています。普段19社の扉は閉じられていますが、神在祭の間だけ全ての扉が開かれます。暦の上では、10月を神無月(かみなしづき)と呼んでいますが、出雲では神在月(かみありづき)と呼ばれています。5は西19社です。八百万の神が宿泊されるのにふさわしく、19と言う数字は、数字の最初(1)から最後の(9)まで、すなわち無限大を示しているそうですよ。ここに各地の神様が集って、縁結びや1年の国政についての会議が行われます。

 

    

 

境内を1周し、また拝殿に戻って来ました。友はここで古いお札を納めに離れて行きましたが、なかなか戻って来ません。時間が制約されているので、ここで友と別れ私たちは別行動をとることにしました。次に私が向かった先は、拝殿の右側(向かって)にある北島国造館(きたじまこくそうかん)です。出雲国造である北島氏の先祖は、天照大御神の第2子天穂日命(あめのほひのみこと)を祖とし、現在は『出雲教(神道教団)』を司っています。1は東側の門で、門には大きな注連縄が掛っていて、ちょっと入りにくそうでしたが、出入りは自由の様でした。2は北島国造館の正門(四脚門)です。四脚門は江戸時代初期の建造物と言われ、島根県の指定文化財になっています。屋根はこけら葺きで、中央上部には正面に龍(写真3)、背面に鯉の欄間彫刻がはめられ、桁上には二重亀甲剣花菱の神紋が施された蟇股彫刻があります。蟇股彫刻や龍の目には金箔押しが残されているそうですが、定かではありませんでした。その門から中に入ると大きな前庭があり、建物の左側には綺麗な庭園と竜寅の池がありました。それが写真4で、ここは少名毘古那神をお祀りしている天神社です。この神様は大国主大神と心を1つにして天下を経営された神様ですが、何故か出雲大社の摂社・末社でなく出雲国造家の邸内社にお祀りされています。後ろに見えているのは亀の尾の瀧です。私が目指している命主社はもう少し先になります。北島国造館を出て2分ぐらい歩くと、5の石畳道に出ました。周りには誰もいません。私1人が歩いています。少し不安になりましたが、前方に命主社への道標を見つけホットしました。命主社は住宅地の外れにありました。

 

    

 

1は命主社(いのちのぬしのやしろ)と、その前にあるムクの巨木です。命主社の祭神は神皇産霊神(かみむすびのかみ)と言い、2回も八十神(大国主大神の兄神)に殺された大国主大神を救った神様です。かつては背後に巨岩があったことから、古代の磐座(神の御座所)が神社に発展した例として貴重な神社と言われています。ムクの木はその殿舎を守護するかのように自生していました。推定樹齢1000年、高さ20m、幹の太さ6m、枝張り総長19mの巨木は、昭和51年(1976)に島根の名樹に指定されています。このムクの木の特徴は地中から根っ子が1,5mほど地上へ出てきて、その根っ子に苔が生えている事です。私はこのムクの木を見たさに、ここまでやって来たのです。私はムクの木に抱きつき、そのパワーを体全身で受け止めました。3分くらい抱きついていたでしょうか?。はっと気がつくと集合の時間が迫っていました。あわてて2のいずも観光センターへ急ぎました。3はそこで食べた出雲そばです。出雲そばはソバの実を甘皮ごと挽いているので、黒くて歯ごたえがあり香りが高いのが特徴です。出雲地方独特の食べ方として、丸い漆器に盛られた割り子そばが有名です。3段重ねが1人前で、つゆを直接そばにかけて頂きます。確かにソバはシコシコとしていて、とても美味しかった!。食後30分のフリータイムが出来たので、私は大急ぎで正門前(二の鳥居)に急行しました。4がその二の鳥居(木製)で、勢溜の大鳥居と言います。ここが出雲大社神域への入口です。5は二の鳥居前方にある神門通りの大鳥居(一の鳥居)で、宇迦橋のたもとに立っています。高さは出雲大社本殿より1m低い23m、柱の周囲6m、直径は2mの鉄筋コンクリート製です。中央の額は畳6畳敷きの大きさだそうです。

 

    

 

二の鳥居を抜けると、三の鳥居(鉄製)が松並木の参道の中に立っています。それが1の写真です。この様に出雲大社は鉄筋コンクリート製、木製、鉄製、銅製(四の鳥居で拝殿前にある)とそれぞれ全部違った素材で出来ています。故に4つの鳥居をくぐれば、幸せ(4合わせ)になると言う。今回は一の鳥居をくぐらなかったので、私の幸せは少し遠のいたかな?。2はムスビの御神像で、3は御慈愛の御神像(因幡の素兎伝説)です。4は神苑にいた兎達です。兎の置物は本殿裏と神苑・神楽殿周辺・祖霊社などに46個も置かれているそうです。兎に桜も良く似合うと思いました。食後30分のフリータイム時に、いずも観光センターから神迎えの道を歩いて二の鳥居へ。二の鳥居からは三の鳥居、松の参道を歩き、左右に御慈愛の御神像とムスビの御神像を見て駐車場に帰って来ました。これで出雲大社は一通り廻り終えたと思います。ただ心残りな事は、一の鳥居まで行く時間が無くて、神門通りを歩けなかったことです。これがパック旅行の悲しい所です。気温は14まで下がっていました。でも雨に降られずに参拝できたのは上々でした。この後、本日最後の行程であるお菓子の壽城に寄りました。それが5の写真です。お菓子の壽城とは、平成5年に大山の麓に米子城をモデルに築城されたお城で、中はお菓子のテーマパークになっています。城は天守閣の高さ27m、石垣の高さ約6mで、屋根には105cmの立派なシャチホコが設置されています。また石垣などの一部は、旧米子城より移築するほどのこだわりで造られているそうです。山陰の名菓の他、海産物や旅の疲れを癒す喫茶コーナーもありました。参加者の皆さんは、ここが出雲での最後のお買いものとあって、皆張り切ってお土産品を選んでいました。この様にして出雲3日間の旅は、あっという間に終わってしまいました。神話のふるさと・出雲は、懐が深くて思っていたより面白い所でした。機会があったらまた訪れたいと思いました。本日3日目の歩行数は12486歩でした。

                           トップページへ                      記・平成30年8月26日