柳本神父の主日の福音説教


◎6月14日 年間第11主日 マタイ9章36~10章8節 わたしたちも弟子から使徒へ

 今日は久しぶりに年間の主日です。前回も書いたように、聖霊降臨の週から年間が始まっています。「年間」というととくに記念することがない「普通の日」のようなイメージがありますが、イエスと教会の宣教を記念する大切な期間です。今日は弟子たちの選定と派遣についての内容ですが、わたしたちへのみことばとして読むこともできます。

 十二人の弟子はすでに選ばれていたとも考えられますが、ここで改めて名前が挙げられます。十二という数字はイスラエルの十二部族を表すので、あとで出てくるとおり、イスラエルの民への宣教を意味します。ずいぶん前のことですが、京都の聴覚障害者の山本さんに「弟子は手話でどう表しますか」と尋ねたところ、膝の上に両手先をちょんちょんと触れられました。なぜ?と思ってよく聞いたら、丁稚(でっち)の前掛けをあらわしているということでした。弟子と丁稚、呼び名も役割も似ていますね。丁稚は未成年でしたが弟子は大人です。でもイエスの弟子もイエスに従いながら宣教を学んでいたということは共通していますね。
 その弟子たちをイエスは宣教に遣わされます。いよいよひとり立ち、いや二人ずつ組にして、と他の福音にあるのでふたり立ちでしょうか。異邦人やサマリア人のところではなく、「イスラエルの失われた羊」のところに行きなさいとイエスは言われました。これは今日の福音の最初にある「飼い主のいない羊」のような、打ちひしがれている人々のところに行きなさい、という意味でしょう。イエスご自身もイスラエルのそのような人々から宣教を始められました。そして十二人という数もそれを表しています。
 いずれにしても、彼らは派遣されることを通して弟子から使徒となったのです。しかし、彼らはイエスの教えを十分マスターしたのでしょうか?派遣のあとイエスが受難を予告された際の彼らの反応や、ヤコブとヨハネの母の願いの箇所を読むと、イエスのことがちゃんとわかっていないように思います。「弟子たち、ほんまに大丈夫か?」と言いたくなりますが、イエスは「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさいとだけ言われます。これはイエスに代わって福音を教えるというよりも、「イエスによって天の国(神の国)がもうすぐ来るよ」と告げなさいということでしょう。それなら大丈夫ですね。もちろん自分なりに理解したイエスの教えも伝えたとは思いますが。

 イエスは冒頭で「収穫のために働く人を送ってくださるように願いなさい」と言われますが、この言葉は司祭召命を願う祈りで使われてきました。しかし、働き手は司祭や修道者だけではありません。わたしたちみんな、聖霊をいただいて社会に派遣されています。弟子たちは厳しい試験を受けてイエスに選ばれたのではありません。いろいろな立場の人が招かれています。共通点はただ一つ、イエスの呼びかけに従ったことです。わたしたちも同じイエスの弟子として招かれ、使徒として派遣されているのです。  (柳本神父)


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◎6月21日 年間第12主日 マタイ10章26~33節 恐れなさい、しかし恐れるな

 今週もイエスが弟子たちを派遣するにあたって語られた言葉です。宣教の際にはさまざまな困難があるかもしれません。ときには人々に受け入れられず、追い出される恐れがあるかもしれません。それでイエスは弟子たちに励ましの意味を込めて語られます。

 人々を恐れる、とは迫害を前提としています。この時点ではイエスに対して反感を持っている人々、とくにユダヤ人の指導者たちもいたことでしょうが、まだ迫害の時代とは言えません。しかし、弟子たちだけで宣教に行くのは勇気がいることであり、不安も感じていたことでしょう。それが人々に対する恐れにつながっていたと思われます。 また、福音書が編集された時点での迫害の状況が反映されているのかもしれません。
 なぜわたしたちは人を恐れるのでしょうか。暴力や迫害もそうですが、弱みを握られるということもあるのではないでしょうか。だれでも一つや二つ、人に知られたくない秘密があります。「あの人、いかついと思っていたらこんなかわいいものを集めていたの?」というような、人に知られると恥ずかしい程度ならまだいいかもしれませんが、地位や役職を失ってしまう秘密もあります。それを公にするぞ、と脅迫されることもあるかもしれません。そのように、敵や反感を持つ人には弱みを握られたらえらいことになります。
 それに対して味方には弱点を見せても大丈夫ですね。ワールドカップが始まりましたが、サッカーでも野球でも、監督は選手のスキルをよく知らないと試合をうまく運ぶはできません。そして、弱点も知っているからこそ、どこでどのような場面でその選手を使うかを考えます。それは、その選手が弱点を持っていることを責めるためではなく、どうすればそれを克服できるか、それをカバーできるかを常に考えます。その選手を守るためには弱点を知っている必要があります。そうして監督は一人一人の個性を生かしながらチームを勝利に導くことができるのです。
 同じように、神もわたしたちの弱さや秘密をすべてご存じです。イエスが言われるように「髪の毛も一本残らず数えられている」のですから、秘密にする以前に全部ばれてしまっています。いわば「神に弱みを握られてしまっている」状態ですね。しかしそれは、わたしたちを責めるためではなく、守り導くためです。すでに知られているのですから、恐れることはないのです。

「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という言葉はたしかに恐ろしいですが、「魂を殺すことのできない者」に対しての表現です。迫害する者よりも神ははるかに力強い方、最高の守り主であることを表しています。「だから、恐れるな」ということなのです。それは大いなる励ましの言葉ではないでしょうか。
 わたしたちはこの世においてさまざまな恐れを抱いています。恐れは心の乱れや差別を生んでしまいがちですが、逆に神への信頼を回復する機会でもあるのです。(柳本神父)

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