アートの旅
私が歩んできた道
幼少の頃、実家が印刷屋だったので紙に埋もれた生活をしていました。
家で遊ぶ時は紙に絵を描き、玩具で遊びたい時は裏の玩具店のガキと遊び、ケーキが食べたい時は隣の社長のガキと遊び、近所のお姉ちゃんに甘えてよく遊んでもらいました。
小学校に入ると図工と体育に夢中になり、4年になって初めて入ったクラブが何を間違えたのか音楽部でした。
中学になると陸上部に入り400Mの選手(大阪市代表)として頑張っていました。
中2の時、ギターを弾き始め加山雄三に影響を受けオリジナルを作りました。
中学卒業時に卒業生(約800人)でただ一人スポーツで優秀な成績を収めた人が貰える
秩父宮章(大阪府体育振興会功労賞)を受賞しました
高校では、フォークブームもあり、軽音楽部に入りPPMのまねをしていました。
そして陸上部にも入って人の3倍遊んでました。
2年の時に体育志望をあきらめ、美術志望に人生をかけようと思い受験の為美術部に入りました。
念願かない、現役で美大に入りました。
美大では、ハンドボール部に入り、軽音楽部にも入り、また人の3倍遊んでました。
この頃、あらゆるバイトをしていました。土地を売る、店を解体する、NHKのテレビカメラの運搬、百貨店のディスプレイと洋服のモデル、絵と彫刻のモデル、ジャズ喫茶の店員とレコード洗い、お引越し、酒屋の出前、印刷屋、まだまだ言えないのもあります。
美大では工芸デザイン科に入り、陶磁器デザインを専攻しました。
九谷焼き中心の授業でしたが、当時の走泥社に影響を受け、オブジェを作っていました。
だから就職は、走泥社同人の熊倉順吉氏が指導する、陶壁面レリーフやモニュメント等を制作するタイル会社に決めました。
その会社では

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