琵琶湖水運と塩津浜

北陸の要敦賀港と琵琶湖水運を結ぶ五里半越えの塩津海道

中嶋 守治(塩津浜歴史研究会顧問)

■北陸・奥羽と京都・大坂を結ぶ荷物の集積港として栄えた塩津浜

 四方より花吹入れて鳰の海  はせお
 近江所縁の松尾芭蕉の句にもある「鳰の海」は「あふみのうみ」「淡海」「近江」「太湖」ともいい、古来より親しまれてきた琵琶湖の古名である。歌に詠まれた琵琶湖は、物資運送の水路として古代から利用されてきた。
 10世紀(延長5年)に完成した「延喜式」第26巻「諸国運漕雑物功賃」条の中に「加賀。能登。越中等国亦同。自敦賀津運塩津駄賃。米一斗六升。自塩津漕大津船賃石別米二升」云々とあって北陸からの物資は海路で敦賀に集め、敦賀〜追分〜沓掛〜塩津浜に至る「塩津海道」を通り湖上を船によって、京都に送るよう指示している。
「塩津海道」は別名「深坂越え」と呼ぶ。越前と近江に通ずるこの海道は難路な峠道を越えなければならなかった。「上り千頭、下り千頭」と牛、馬が漸く運ぶ物資と共に、力自慢の男たちがハァハァと肩で息をしながら大荷物を持ち上げてくる姿を谷鮟鱇(たにあんこう)とユーモラスに呼んだという。
 陸路〜湖路の中継地、塩津浜は多くの問屋、旅籠、商家などが軒を連ね宿場町として大変なにぎわいを見せていた。『山本山がのいたらよかろう塩津が見えてなほよかろう』と「鄙の一節」にあって塩津のにぎわいへの羨望が歌になるほどであった。港は、湖の手前で鉤の手に曲がっている集落横の大坪川が利用されていた。波風に左右されず係留できる天然の良好に沿い、立ち並ぶ白壁の大きな倉は威風を誇っていた。

■江戸時代から発達する琵琶湖独特の帆船丸子船

丸子船

 江戸期に入ると物資の運送量は増加の一途をたどり、湖上に浮かぶ小船では対応できなくなった。そこに登場したのが、大型木造帆船丸子船であった、船の両側に長い丸い木を半分に割り付け(重木といい重心の安定を図る)たことから「丸子」とか「丸太船」とも呼ばれた。百石船(米250俵積み)以上のものを大丸子、それ以下のものを小丸子として区別していた。最大490石船の記録もある。一般的には100石積みから200石積みの船が多く、港が保有する隻数が物資輸送量を表す指針となっている。
 寛文4年(1664)敦賀の記録によると、主な上がり荷は、米75万6千俵をはじめ四十物(あいもの・塩魚)、昆布、塩鮭、紅花等。下り荷は反物、陶磁器、茶などとなっている。
 一方、陸路運送の難所、深坂越えを避け新道野越えが整備された。距離は半里(2km)長くなったが勾配、標高で有利になった塩津港には200隻を超える丸子船が従事し、荷待ちの船は港口付近に埋め尽くされていたとある。夜明け前、内嵐(陸地から湖上に向かって吹く風)に乗って次から次へと出航する丸子船の白い帆が沖合いで朝日を受けてまぶしいように光るありさまは、実に美しいものだったといわれている。


にぎわいを見せていた明治時代の塩津港(絵図)

■蒸気船の登場で始まる大量運送の戦国時代

 江戸末期になると、北国の各藩は藩主護衛のため、琵琶湖に自藩の持ち船を作り始めた。加賀大聖寺藩士の石川璋は藩主に「西洋では石炭を燃料とする早船を使用している、この早船を使ってはどうだろう!」と進言したところ、狂人扱いされたという。石川は大津百艘仲間の一庭啓二と二人で長崎に行き、英国人から陸用機関2組を買い入れ、大津に戻ってきた。船の横に大きな外輪、中央の長い煙突から黒煙を吐きながら「一番丸」(14馬力・4カイリ)が湖上に船出したのは明治2年3月3日であった。

江戸期の造り酒屋

 文明開化のエンジン音も高らかに走る蒸気船は、今津〜大津間を5時間がかりののんびりした船旅であった。しかし、風雨に左右されない蒸気船は貨客運送の主力となり、次々と汽船会社が設立。貨客の争奪、サービス合戦、速力競争と汽船戦国時代を呈した。大量物資運送に対応するため、造船される蒸気船も大型化され、同15年には日本最初の鋼鉄船「第一太湖丸」(516総トン)、「第二太湖丸」(498総トン)も塩津〜大津間に就航。
 これら大型船に対応するため、塩津港も湖に面した集落の南に移した。郡史によれば、塩津浜の街中のにぎわいは「殷賑を極めた」とあり、「街中は旅人や、牛馬車の往来繁く、荷物を扱う問屋は、百二十戸が軒を連ね、そのうち五十人以上が働く問屋は五軒あったとあり、また二十人以上泊まれる宿屋が二十数戸、飲食店は三十数戸を数え、歩くのにも不自由をきたした」と表現されている。

■貨客運送は船から鉄道に、琵琶湖水運繁栄の歴史に幕

明治に入ると日本各地に鉄道が敷設され始めた、明治15年、敦賀〜長浜間に鉄道が開通。しかし、陸蒸気と称された汽車は当時の庶民にとってはまだまだ高嶺の花であった。ヤンマーディーゼルの創始者、山岡孫吉氏によれば「明治三十六年十六歳の二月三日早朝、山を越え片山港から大津まで十六銭の蒸気船に乗り大阪に向かった、当時の汽車賃は八十銭であった」と回顧している。やがて鉄道が庶民の貨客輸送の主力になると、蒸気船の姿も一気に消えてしまった。わずかに残った丸子船も高度成長の波に飲み込まれた。塩津浜繁栄の歴史は今は昔、鄙里の岸に繰り返す波音が悠久の時を今静かに刻んでいる。

船員ほけん2002年3月号に寄稿


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